2012年3月18(日)
入院2日目。函館中央病院にて。
本日はターゲス(1日に7回採血して、血糖値の動きを見る検査)。
朝から採決失敗で、手の甲に二度の針刺し。痛い。
痩せると血管が見えてくるのだが、体重が増加した状態だと
血管が見えないし、どうやら「逃げる」らしい。
で、結局のところ7回の採血のために、注射針を計10回刺した。
痛い目に遭うと、やっぱり体重は落とした方が良いな、と痛感する。
◆朝食/ごはん(180g)、味噌汁(大根)、白菜おかか和え、竹輪と高野豆腐の煮物、味のり。480kcalくらいかな。
病棟の廊下に1週間の献立表が掲示してあり、
カロリー・塩分・たんぱく質が明記されている。
これはたいへん参考にある。
しかし、治療食(糖尿病でカロリー制限とか、腎臓病でたんぱく質制限とか)の場合は、
患者によって内容が異なるので、メニュー表とすべて同じというわけではない。
最初の入院時(2009年6月)には、献立表の掲示がなかった。
翌年2月に、五稜郭病院に腎臓の検査で入院した際には、
食事トレイに内容(カロリー・塩分・たんぱく質を表記)を記載した紙が添付され、
より丁寧で使いやすかった。
◆昼食/食パン(2枚)、たまご焼き、ソーセージ、牛乳(180ml)、サラダ、りんごジャム、減塩しょうゆ。8単位(640kcal)かな。
果物アレルギーなのでバナナは避ける。明日あたりから、果物を止めてもらえるだろうか。
ジャムもそれほど好きではないので手を付けず。
パンはふんわりで、なかなかの美味。
◆晩飯/ごはん(180g)、味噌汁(白菜)、サバ塩焼き、ふき炒め、肉じゃが、和え物(えのき)。8単位(640kcal)くらいなもんだろう。
自宅できっちり食事制限をしていたときは、
ごはんを150g(3単位/240kcal)で計算している。
品種、精米方法、もしくは炊き方の違いだろうか。
個別表記のあった180gより多いような気がする。
田んぼ記者らしいことを書いておくと、
同量の「米」を炊いても、上記の理由で「ごはん」の量が変わるのは本当の話。
精米方法を例にとると、ふつうの白米よりも、同じ品種の無洗米のほうが、
同じ体積をはかりとったしても、米粒の数は多くなる。
つまり、炊きあがった「ごはん」の量(体積)が、無洗米の方が増えるのだ。
だから、お米の計量カップは、白米と無洗米で異なっているのである。
というわけで、家から持参した電子はかりでご飯の量を量ってみた。
488g - 319g = 169g
あれ、こんなもんか。むしろ少ないという結果。
あてにならん感覚だ。だから、太ったんだろうけど。
【自分史草稿】-----------
私が生まれた1973(昭和48)年とはどんな年だったのだろう。
世相史年表などにかならず記載されるのは「第一次オイルショック」である。
トイレットペーパーを求めて殺到する人たち、ってやつだ。
当然ながら、私自身にはその当時の記憶などない。
母は札幌出身だったので、母親のいる札幌で私を出産した。
出産の知らせを聞いて、
父は札幌行きのトラックをヒッチハイクして札幌へ来たという。
フェリーの船員なので、たぶん乗船していた運転手にお願いしたんだろう。
どれがもっとも古い記憶かはわからない。
もしかしたら、
あとで聞かされたエピソードを「記憶」と勘違いしているものもあるだろう。
赤川町(もしかしたら赤川通町だったかも知れない)に住んでいた。
一軒家だった。建て売り住宅だったそうだ。
私が2歳くらいのころ購入して転居している。
父は30歳の手前だ。生活力あるなぁ。とても真似できない。
そういう時代でもあったのだろう。
1975(昭和50)年ころの話である。
大きな地図で見る
たぶん、このあたりだ。
ここ10年で便利になったもんだ。
地図を参照するには、図書館でゼンリンの大きくて重たい地図をめくって、
コピーの申請とか掲載の許諾とか、めんどうな手続きが必要だった。
その一方で、隣に古い地図を見つけたので今昔を見くらべてみた、
なんて体験に出会う機会が減るのは、学生にはもったいないことだろう。
いまよりは空き地は多かった気がするが、
当時すでに住宅街だったはずだ。
今は石川町へ通り抜ける道があるが、当時はたぶんどん詰まりだったので、
ほとんど車の交通もなかった。
向かいの家に、少し年下の姉妹がいて、
いつも道路にレジャーシートを敷いて、おままごとしてたそうだ。
幼いころから活発な人間ではなかったのである。
女性好きではあったようだ。
そういえば、ご近所の同年代で遊びに行く家は、
どこも女の子の家ばかりだったな。
そのうちの一人が、後年、同じ高校だったのには驚いた。
(子どもには)おもしろい響きの姓名だったので、覚えていたのだ。
学校で会ったり話したりはしなかったけれども。
自宅前から南へ少し歩くと、
立ち並ぶ住宅の合間に、大きめの空き地があった。
土管はなかったが、ドラえもんに出てくるような場所だ。
近所の子どもたちが集まっていた。年上も年下もいただろう。
みんなと一緒に遊びまわった、という記憶はあまりない。
たしか、青白のスタジャンみたいなものを着ていて、
そいつの生地が「パリパリ」と音を立てるので、
「これはパリでつくったんだ」と奇妙な自慢をしていたのを覚えている。
おそ松くんのイヤミ氏みたいな子どもだ。
そういうところは、35年くらい年齢を重ねても治っていない。
このままなんだろう、きっと。
家には庭があって、白いブランコがあった。
駐車スペースはあったが、車はなくて原チャリ(たぶんカブ)があった。
父が自動車教習所に連れて行ってくれたのを覚えている。
教習車の後部座席に座っていると、父がブレーキを踏むたびに窓に頭をぶつけていた。
教官がそのたびに笑うので、後半はわざとにぶつけていた気がする。
父が車を降りた後で、「そんなに揺れたか」と聞いてきた。
あ、その後部座席に果物が入った網かごがあったのも思い出した。
フルーツナイフも入っていて、それに触ったら痛いだろうな、と怖がっていた。
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