2018年4月15日(日)
当初11日の予定だった入院が13日の金曜日になった。最近の血糖コントロールが順調で、手術前に血糖を調整するために入院する必要はなしと判断されたようだ。こちらは入院の予定を組んでしまっていたので、急に空いてしまった時間に新たな仕事を入れられるわけでもなく、思わず焼肉なんかを食べつつ延期された入院日を迎えてしまった。野放しにすると、なにをしでかすかわからない生物だ。
当初11日の予定だった入院が13日の金曜日になった。最近の血糖コントロールが順調で、手術前に血糖を調整するために入院する必要はなしと判断されたようだ。こちらは入院の予定を組んでしまっていたので、急に空いてしまった時間に新たな仕事を入れられるわけでもなく、思わず焼肉なんかを食べつつ延期された入院日を迎えてしまった。野放しにすると、なにをしでかすかわからない生物だ。
7時に起床して朝ごはん。高品質の米を土鍋で炊いたお粥がめっぽううまい。たまたま昨日1歳を迎えたセキセイインコのピーさんとお話をしてから、じっくりと歯を磨きシャワーを浴びて病院への出立の用意をする。荷造りは昨夜のうちに済ませた。海外旅行用のスーツケースに入院中の衣服やら書籍やら資料やらパソコンやらを詰め込んだ。計量したら20.6kgだった。LCCなら超過料金だ。
10時、病院に到着。病室へ案内される。今回は昨年12月に1カ月間入院したときと同じ病棟のひとつ上の階だった。つくりはほぼ同じなので、看護師の施設説明も半分聞き流す。病室は4人部屋で先客2人。窓側は埋まっているので廊下側のベッドに。いつもは入院前に「窓側で」と強く要望するのだが、今回は手術が目的で長逗留ではないので、あまり我儘は言わないことにした。とは言え、やはり窓側とは違う暗さと閉塞感と落ち着きの無さ(廊下に近いので)に、5分で閉口してしまった。
病衣に着替えて体重測定。103.6kg。だがしかし、今回は抜かりがない。朝食を摂る前に、いつものようにパンツ一丁で体重測定をしてきたので、差分から病衣の重さが600gだとわかった。ということで103.0kg(パンツ一丁補正)からのスタートとなる。さっそく採血。先月から腕から採血が禁止されたので(将来の血液透析に備えた処置)、手の甲に針を刺される。この部位はどうやっても痛い。ただ、腕(肘の反対側)に比べると血管がなんとか見えているので、針刺しを失敗しないのがせめてもの救いか。腎臓の機能を測定する蓄尿も始まる。ベッドまわりのセッティングに1時間ほどかけ、持参した延長コードの取り回しに工夫を重ねて、床頭台をいつものように仕事机に変身させた。まずまず快適だ。
これまで年一の恒例行事的に入院していたのは消化器内科。今回は泌尿器科での入院。この科は「主治医」制というものがなくて、科に属する医師全員が患者の情報を共有している。そういうわけで、この日は3人の医師が次々と回診に訪れた。外来の担当医以外は初顔合わせ。手術についてさらっとした説明しかなくて不明な点が多かったのだが、入院してようやく詳しい治療内容を確認することができた。
ここで入院までの経緯を整理しておく。毎月受診している消化器内科の主治医から、腎臓の数値の悪化が止まらないので、そろそろ透析を視野に入れた治療を進める準備が必要だろう、と言われたのが今年2月20日だ。泌尿器科への紹介状を書いてもらい受診予約を入れた。ちなみに、消化器内科も泌尿器科も同じ病院内にあるわけだが、やっぱり紹介状という形式をとるのが興味深かった。電子カルテになっているから、画面上だけでのやりとりかもしれないが。3月8日、泌尿器科を受診。これまでの検査数値から、早いうちに人工透析の準備を始めることを勧められる。腎不全に関する簡易的なパンフレットをもらって、次回の診察時までに透析導入の判断(覚悟)をしてきてと言われる。ついに来たかと思うと同時に、いきなりだなとも感じだ。昨年12月の入院でわずかに腎臓の数値が良化していたが(もともとすでに悪いのだが)、年明けからの2カ月で驚くほど急激に悪化して(クレアチニン 3.13 → 6.19、eGFR 18.0 → 8.9)、ぎりぎりのラインを軽々と超えてしまっていた。原因はわからない。この間に体重は増えていたが、血糖値はまずまずだったし(HbA1C 6.4)、酒も暴飲はしていなかった(γ-GTP 36)。
一度壊れた(壊した)腎臓の機能は戻らないし治らない。この先できることは人工透析か腎移植のふたつだけだ。人工透析には大まかに言って二種類の方法がある。ひとつは多くの人の透析のイメージにある血液透析というものだ。一般的には週三日通院して一回3〜5時間ほどかかる治療をおこなう。もうひとつは腹膜透析という方法で、これはお腹にある腹膜を使って血液の不純物を取り除く。多くの場合は一日に四回各30分ほどかけて、お腹の中の透析液を交換する必要があるが、それは自分の手でおこなうことが可能だ。通院は月に一回程度で済む。食事制限も血液透析よりは緩やかで、ほどほどにお酒を楽しめるチャンスも残せる。数日の出張旅行も可能だ。この他にも各種のメリットとデメリットがあるのだが、まずは腹膜透析から始めることを決断した。これは生活の自由度が高いという点を評価したからである。腹膜透析の実際については、これから体験を重ねながら書き継いでいくことにしよう。3月27日、泌尿器科を受診。担当医(この医師は四日後に転勤)に腹膜透析の要望を伝える。このとき自分では、透析の準備を始めるのは半年とか一年後くらいと考えていたのだが、この日のうちに4月11日からの入院が決まってしまった。
腹膜透析と血液透析のどちらの場合でも、まずは手術が必要になる。腹膜透析の場合は、お腹に透析液を入れることで人工透析をおこなうので、そのための入口(出口でもある)つくることになる。腹腔鏡で位置を確かめながらカテーテル(管)をお腹の中に留置する手術だ。今回の入院はそのためだ。慌ただしく決まった手術だが、もうひとつ手術当日までに「やっておくこと」を医師から伝えられた。全身麻酔が効きにくいので、体重を100kg以下にせよ。あと二週間じゃムリだろうなと思いつつ、わかりましたと返事をしておいた(予想通り達成できなかったが)。
そんなわけで、明日16日の朝から手術をする。
もともと腎臓の機能を示す検査数値は良くなかった。記憶をたどると、小学4年生のときに検尿でタンパクが検出されたのが最初だと思う。その後も学年の最初にある尿検査ではタンパク尿の指摘が続いていた。当時の自分は、ごく一般的な思春期の男子であったので、とにかく検尿で再検査になるのが恥ずかしかった。検尿の前日に自慰をして精液を放出すると、それが尿に残ってタンパクが検出されるのだと、男子生徒の間では噂されていたからだ。再検査でもタンパクが検出されると、学校から病院への受診を進められるのだろう。小中高と一回ずつ近所の泌尿器科医院へ親に連れて行かれた記憶がある。しかし、専門医からも「病気」という診断は得られなかったのだろう。様子を見ましょう、体質でしょう、という感じだったのかもしれない。親もそれ以上の診察や治療を受けさせることはなかった。当時の自分はタンパク尿と腎臓機能の関係など知らないから、ただただ「泌尿器」というフレーズに恥じ入っていたものだ。さらには、受診時にはパンツを下げられて、下腹部や股間を触診されるのも嫌だった。俺自身は性病にでもなったのかと考えていたのだが、そもそも性病に罹患するチャンスもない少年だったのに。性病とは性器の病気ではなくて、性行為によって感染する病気という意味も知らなかったわけだ。
あらためて治療の機会があったとすれば大学生の時だったろう。入学直後の健康診断で、やはりタンパク尿を指摘され、再検査でも引っかかった。当時、大学新聞を発行する団体で活動していたのだが、筆名に「腎臓悪太郎」を使ったことがあったと思う。大学からは具体的に「この病院に受診せよ」という通達があったはずだ。JR国分寺駅北口商店街の雑居ビルにある腎臓専門のクリニックを受診した。こじんまりとしていたが、明るい診察室だったことを覚えている。何度か通ったのだが、「すこし痛い思いをして検査する必要がある」という医師の言葉を聞いた途端に通院をやめてしまった。今にして思えば、あれはたぶん腎生検のことを言っていたのだろう。
そこから30歳まで、病気治療に関してほぼ空白の時代になる。どうにか就職して、勢いで退職して、なんとなく独立して。そんなときに、病院の待合室で時間を浪費するのは、まったくもって無駄だと思っていた。徹夜も平気だったし、体力もあった。健康診断を受診しようだなんて考えもしなかった。でも、そうやって病気を放置することで、寿命を縮めているのだから、我ながら馬鹿なことだと思う。あとのまつりである。ただ、その当時はそれでそこそこ充実していたという実感があるのが、せめてもの救いではあるのだが。
30歳以降の通院・検査の記録はすべて保存してある。タンパク尿の検出はずっと続いていたので、36歳のときには腎生検を受けているが、その時でも俺の腎臓が尿にタンパクをこぼしてしまう原因は特定されなかった。おそらく俺の腎臓は、もともと慎ましく生活しなければいけない程度に弱いものだったのかもしれない。
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