腎臓病【治療】日記: 2018年4月アーカイブ

 手術前日に4000字ほど入院日誌を書いているうちに、どんどん不安が募ってきて緊張してしまった。原稿の締め切り直前と同じ胃の痛みを感じつつ。ただ、消灯後に懸念だった便秘を払拭する快便があったので、その嬉しさからもやもやした不安は雲散霧消してよく眠ることができた。
 5時半過ぎにアラーム(音なし・振動あり)で起床。良い天気で、絶好の手術日和だ。歯を丁寧に磨いて顔を洗う。いつもは熱湯が出る蛇口から、ごくごくぬるい湯しか出てこない。早朝に顔を洗ったことがなかったので、これがいつものことなのかもしれないが、かるく不機嫌になる。病室も寒いし。耐寒訓練に来てるんじゃないぞ。
 6時、看護師が来て胃薬と血圧の薬を渡される。ウーロン茶で飲み干して、ここからは手術終えて許可が出るまで飲水不可となる。大きな袋に入ったワンピース状の手術衣を渡されて着替える。下着は丁字帯(Tではない。形状はTだが。ちなみに、T字路ではなく丁字路が正しい。)というフンドシ状のもの。さらに、膝から下を圧迫するための伸縮性のない白のストッキングが入っている。
 7時、浣腸をされる。大きく「ゆ」と書かれた銭湯トランクスを履いていたので、看護師さんが笑っていた。すぐに便意をもよおしてトイレに駆け込むが、わずかにコロリと出たのみ。点滴が始まる。やはり手の甲から。最初に差し出した左手の甲に針を刺したものの「すいません。失敗っす。」と言われて断念。「これはプロを呼んで来ますんで」と言われて、お前もプロだろうにと心のなかでつぶやく。「ちょっと右手を見せて、あ、これなら全然いけるっす」。ということで、「プロ」を呼ぶことなく、その看護師が点滴の針を指した。右手の甲は何度も採血されていて、痛みが強いのだ。なんやかんやで20分ほどかかったと思う。
 8時半過ぎに妻が到着。ペットボトルとストローについて話し合っているうちに、9時10分となり看護師が迎えに来た。手術室へは歩いていくのだが、例の丁字帯がずり落ちそうで厄介だった。看護師さんが病衣の上から丁字帯の紐を掴んでくれたが、まるで犬の散歩でもしているようだ。途中、指輪やピアスとか身体に装着しているものはないかと問われたので、頭に手をやったら笑っていた。
 「奥さんはここまでです」。手術室に入る。ここで看護師さんにメガネを渡す。しばし座っていると、手術担当の看護師に手術室へと連行される。メガネがないので視界はぼんやりだ。よく見えないおかげで恐怖感はない。「昨日は眠れましたか」と問われて、しっかり眠ったというのが照れくさかった。ここは緊張して眠れなかったという言葉を期待されているのではないだろうか。そんな余計なことを考えつつ、手術台に乗った。

 気がついたら終わっていた。

 手術は硬膜外麻酔から始まった。かっぱえびせんのパッケージに描かれているようなエビの姿勢になり、背中をぐいぐいと押されるような感覚。プツリ、ピリっ、とした痛みが何度かあった。薬液が注入されると、腰周辺が押される感じがした。我慢できないほどの痛みではなかったが、何度か痛いとつぶやいておいた。
 再び仰向けにされた後、酸素マスクをつけられて、深呼吸をさせられる。「段々とねむくなりますよ」と言われて、いったいどのタイミングで眠ってしまうのだろうと思っていたら、気がつけば手術が終わっていた。最後の記憶は、右の手首の少し上あたりから指先にかけて、激しく痺れるような痛みだ。それは、事前に伝えられていた。血管の痛みだという。
 9時15分に手術室に入り、病室に戻ってきたのが12時である。事前に1時間程度と言われていたので、すこし長くかかったようだ。分厚い脂肪に手間取ったのかもしれない。手術台から「1,2,3」の掛け声とともにベッドに移される。口には酸素マスクがされたままだ。ガラガラとベッドを押されて病室へ向いながら、自由に動く両手で腰や足を触るが、まったく感覚がないのが面白かった。顔を触ると目に涙が滲んでいた。よだれも出たのかもしれない。病室に戻ると妻がいたので「ただいま」と言った。
 病室に戻ってまず最初に「記録しておこう」と思った。妻にパソコンを開いてもらって口述筆記でメモを取った。この文章の手術とその後に関する記述はそれを元にしている。つまり、全身麻酔の直後でも、頭はすっきりと回っていたということだ。手術前に「全身麻酔は身体に大きな負担がかかるそうだよ」と幾人からか言われたが、自分としてはエビデンス不明で懐疑的だった。初の経験だったが、全身麻酔の寝覚めは悪いものではない。もちろん、麻酔に合わない体質の人もいるだろうが。もうひとつ。手術後二日目から首と右腕に筋肉痛が出始めた。もしかすると、全身麻酔中の無意識下でもがき苦しんだのかもしれない(例えば気管挿管などで)。だとするなら、そこまで苦しい思いを、こんなに楽ちんにスルーさせてくれる全身麻酔は素晴らしい技術である証左だろう。
 全身麻酔から起こされると、すぐに意識がはっきりとし、まず最初に「面白い」という言葉をつぶやいていた。惜しむらくは、メガネを預けてしまっていたので、手術室の様子が全く見ることができなかったこと。手術台に寝かされて、執刀医と看護師と麻酔医の顔を見上げるシーンは、まさにドラマや映画の患者視点のカットそのものだった。麻酔から醒めた直後は、理由のよくわからない高揚感があったように思う。
 病室に戻り落ち着いてから自分の体の状態を確かめる、腰から下の感覚がない。腹部はしびれたような感じ。少し空腹を覚えている。鼻が詰まっていたので、鼻をかんだら鼻血がでていた。気管挿管の影響か、喉が痛くてえずく(オエッとなる)感じがある。妻に問うと、脚はまっすぐになっていると言うが、自分としては膝を曲げて足を立てているように感じていた。そうだ、と思いついて、寝ている姿を撮影してもらった。病室に戻ってから1時間ほどして、少しずつ痺れが増してきた。腹部には圧迫感を感じている。痛みのようなもの、そして、便意のようなものを感じる(しかしその後2日たっても便秘中である)。
 手術から1時間後、左腹部の傷みが強くなってきた。下半身の感覚は、お葬式で二時間正座したままお経を聴かされた後に、焼香のために立ち上がった時の足の痺れを三倍強くした感じ。最近の葬儀はパイプ椅子に座るし、昇降台も席まで回ってくるから、足の痺れを意識する場面は少なくなった。
 14時、付き添っていた妻にiPhoneを渡して、1時間ほどポケストップめぐりをしてきてもらう。今回の入院では散歩に出かけられないので、ポケボールの枯渇が気になっていたのだ。病院の敷地内ではかなりの頻度でポケモンに遭遇するので。15時、ミッションを終えた妻は帰宅した。

 術後しばらくして気がついたのだが、尿道がひりひりと痛むようだった。どうやら手術中に尿道へのカテーテル(バルーン)を挿入されたらしい(翌日、医師に確認)。これは事前に病院との攻防があって、こちらとしてはカテーテルを挿入される措置を頑なに拒否していた。痛そうだから。幾度かのやりとりの末に、医師から挿入なしでも手術可能という言質をいただいた。ただし、手術が長引いた場合はその限りではないということだった。そのような背景があったので、手術中に挿入し麻酔が効いている間に抜いたものと思われる。結局のところ尿道は痛むことになったので、これなら術後もそのままでも良かったのかもしれない。ベッドから起き上がってトイレには行けないので、排尿は尿瓶を使うことになる。早ければ術後数時間で車イスを使えるという話もあったので、どうにかそこまで我慢しようとしたが、尿意の波は次々と押し寄せてきた。もうだめだ。ついにナースコールを押して、尿瓶を股間にあてがわれた。が、出ない。電動ベッドの角度を調整して、上半身が起きた姿勢になってみたが、やはり出ない。そのうちに、看護師さんは尿瓶を俺に預けて去っていった。尿意はある。しかし、排尿の仕方を忘れてしまったかのように、うんともすんとも出ない。これは厄介なことになったぞ。練習をしておくべきだったのだ。ここから尿瓶との闘争は19時まで続いた。
 尿瓶に排尿できない原因は大きく二つある。ひとつは尿道の痛みで、排尿時にはさらに染みるように痛いだろうと予想でき、それを恐れて踏ん切り(尿なのに)がつかないのである。もうひとつは、ベッドの上で服を着たまま布団の中で排尿するという非日常性的な行為に対して無意識の抵抗感があることだ。前者の痛みについては自分の中で変換法則(頭でごまかす方法)があって、「この痛みは鼻毛抜き3本分だ」などと測定していると、なんとなく我慢ができる。鼻毛を抜くのはかなり痛い行為である。高校生のときに夏目漱石の日記、それから内田百閒の随筆を読んで、文筆家への憧れから鼻毛を抜くようになった。その癖が四半世紀続いており、鼻毛抜きに関してはスペシャリストを自認している。そんなわけで、瞬間的な痛みについては「鼻毛抜きに比べたら、ことさら痛がる必要はない」と念じることで、脳を騙すことができる。尿瓶障壁のもう一方の要因解決が困難である。これは「慣れ」の問題だ。いくつか自分なりの工夫を重ねてみた。まずは脳内イメージの変換。尿瓶をあてがい目を閉じて「ここはトイレだ。清潔で快適なトイレだ。」と頭の中で描いたもののダメ。幼いころ「シー、シー」と言われて放尿した記憶を掘り起こすもダメ。小田原城攻めの際の秀吉と家康の放尿(これはもしかして北条とかけてあるのかしら)する場面を脳内上映してもダメ。しからばアプローチを変えて、非日常には非日常をぶつけてみようと考えた。SMの女王様を登場させて排尿を強制させようと試みたが、この女王様が勝手に「ほら、もっと我慢しなさい」などと命じてくるので失敗。結局は膀胱が破裂するくらい尿が溜まったことで、致し方なしという感じで尿瓶に放尿できた。その後、21時ころに車イスでの移動許可が出て、トイレに行くことが許されたのであった。
2018年4月15日(日)
 当初11日の予定だった入院が13日の金曜日になった。最近の血糖コントロールが順調で、手術前に血糖を調整するために入院する必要はなしと判断されたようだ。こちらは入院の予定を組んでしまっていたので、急に空いてしまった時間に新たな仕事を入れられるわけでもなく、思わず焼肉なんかを食べつつ延期された入院日を迎えてしまった。野放しにすると、なにをしでかすかわからない生物だ。
 7時に起床して朝ごはん。高品質の米を土鍋で炊いたお粥がめっぽううまい。たまたま昨日1歳を迎えたセキセイインコのピーさんとお話をしてから、じっくりと歯を磨きシャワーを浴びて病院への出立の用意をする。荷造りは昨夜のうちに済ませた。海外旅行用のスーツケースに入院中の衣服やら書籍やら資料やらパソコンやらを詰め込んだ。計量したら20.6kgだった。LCCなら超過料金だ。
 10時、病院に到着。病室へ案内される。今回は昨年12月に1カ月間入院したときと同じ病棟のひとつ上の階だった。つくりはほぼ同じなので、看護師の施設説明も半分聞き流す。病室は4人部屋で先客2人。窓側は埋まっているので廊下側のベッドに。いつもは入院前に「窓側で」と強く要望するのだが、今回は手術が目的で長逗留ではないので、あまり我儘は言わないことにした。とは言え、やはり窓側とは違う暗さと閉塞感と落ち着きの無さ(廊下に近いので)に、5分で閉口してしまった。
 病衣に着替えて体重測定。103.6kg。だがしかし、今回は抜かりがない。朝食を摂る前に、いつものようにパンツ一丁で体重測定をしてきたので、差分から病衣の重さが600gだとわかった。ということで103.0kg(パンツ一丁補正)からのスタートとなる。さっそく採血。先月から腕から採血が禁止されたので(将来の血液透析に備えた処置)、手の甲に針を刺される。この部位はどうやっても痛い。ただ、腕(肘の反対側)に比べると血管がなんとか見えているので、針刺しを失敗しないのがせめてもの救いか。腎臓の機能を測定する蓄尿も始まる。ベッドまわりのセッティングに1時間ほどかけ、持参した延長コードの取り回しに工夫を重ねて、床頭台をいつものように仕事机に変身させた。まずまず快適だ。
 これまで年一の恒例行事的に入院していたのは消化器内科。今回は泌尿器科での入院。この科は「主治医」制というものがなくて、科に属する医師全員が患者の情報を共有している。そういうわけで、この日は3人の医師が次々と回診に訪れた。外来の担当医以外は初顔合わせ。手術についてさらっとした説明しかなくて不明な点が多かったのだが、入院してようやく詳しい治療内容を確認することができた。

 ここで入院までの経緯を整理しておく。毎月受診している消化器内科の主治医から、腎臓の数値の悪化が止まらないので、そろそろ透析を視野に入れた治療を進める準備が必要だろう、と言われたのが今年2月20日だ。泌尿器科への紹介状を書いてもらい受診予約を入れた。ちなみに、消化器内科も泌尿器科も同じ病院内にあるわけだが、やっぱり紹介状という形式をとるのが興味深かった。電子カルテになっているから、画面上だけでのやりとりかもしれないが。3月8日、泌尿器科を受診。これまでの検査数値から、早いうちに人工透析の準備を始めることを勧められる。腎不全に関する簡易的なパンフレットをもらって、次回の診察時までに透析導入の判断(覚悟)をしてきてと言われる。ついに来たかと思うと同時に、いきなりだなとも感じだ。昨年12月の入院でわずかに腎臓の数値が良化していたが(もともとすでに悪いのだが)、年明けからの2カ月で驚くほど急激に悪化して(クレアチニン 3.13 → 6.19、eGFR 18.0 → 8.9)、ぎりぎりのラインを軽々と超えてしまっていた。原因はわからない。この間に体重は増えていたが、血糖値はまずまずだったし(HbA1C 6.4)、酒も暴飲はしていなかった(γ-GTP 36)。
 一度壊れた(壊した)腎臓の機能は戻らないし治らない。この先できることは人工透析か腎移植のふたつだけだ。人工透析には大まかに言って二種類の方法がある。ひとつは多くの人の透析のイメージにある血液透析というものだ。一般的には週三日通院して一回3〜5時間ほどかかる治療をおこなう。もうひとつは腹膜透析という方法で、これはお腹にある腹膜を使って血液の不純物を取り除く。多くの場合は一日に四回各30分ほどかけて、お腹の中の透析液を交換する必要があるが、それは自分の手でおこなうことが可能だ。通院は月に一回程度で済む。食事制限も血液透析よりは緩やかで、ほどほどにお酒を楽しめるチャンスも残せる。数日の出張旅行も可能だ。この他にも各種のメリットとデメリットがあるのだが、まずは腹膜透析から始めることを決断した。これは生活の自由度が高いという点を評価したからである。腹膜透析の実際については、これから体験を重ねながら書き継いでいくことにしよう。3月27日、泌尿器科を受診。担当医(この医師は四日後に転勤)に腹膜透析の要望を伝える。このとき自分では、透析の準備を始めるのは半年とか一年後くらいと考えていたのだが、この日のうちに4月11日からの入院が決まってしまった。
 腹膜透析と血液透析のどちらの場合でも、まずは手術が必要になる。腹膜透析の場合は、お腹に透析液を入れることで人工透析をおこなうので、そのための入口(出口でもある)つくることになる。腹腔鏡で位置を確かめながらカテーテル(管)をお腹の中に留置する手術だ。今回の入院はそのためだ。慌ただしく決まった手術だが、もうひとつ手術当日までに「やっておくこと」を医師から伝えられた。全身麻酔が効きにくいので、体重を100kg以下にせよ。あと二週間じゃムリだろうなと思いつつ、わかりましたと返事をしておいた(予想通り達成できなかったが)。
 そんなわけで、明日16日の朝から手術をする。

 もともと腎臓の機能を示す検査数値は良くなかった。記憶をたどると、小学4年生のときに検尿でタンパクが検出されたのが最初だと思う。その後も学年の最初にある尿検査ではタンパク尿の指摘が続いていた。当時の自分は、ごく一般的な思春期の男子であったので、とにかく検尿で再検査になるのが恥ずかしかった。検尿の前日に自慰をして精液を放出すると、それが尿に残ってタンパクが検出されるのだと、男子生徒の間では噂されていたからだ。再検査でもタンパクが検出されると、学校から病院への受診を進められるのだろう。小中高と一回ずつ近所の泌尿器科医院へ親に連れて行かれた記憶がある。しかし、専門医からも「病気」という診断は得られなかったのだろう。様子を見ましょう、体質でしょう、という感じだったのかもしれない。親もそれ以上の診察や治療を受けさせることはなかった。当時の自分はタンパク尿と腎臓機能の関係など知らないから、ただただ「泌尿器」というフレーズに恥じ入っていたものだ。さらには、受診時にはパンツを下げられて、下腹部や股間を触診されるのも嫌だった。俺自身は性病にでもなったのかと考えていたのだが、そもそも性病に罹患するチャンスもない少年だったのに。性病とは性器の病気ではなくて、性行為によって感染する病気という意味も知らなかったわけだ。
 あらためて治療の機会があったとすれば大学生の時だったろう。入学直後の健康診断で、やはりタンパク尿を指摘され、再検査でも引っかかった。当時、大学新聞を発行する団体で活動していたのだが、筆名に「腎臓悪太郎」を使ったことがあったと思う。大学からは具体的に「この病院に受診せよ」という通達があったはずだ。JR国分寺駅北口商店街の雑居ビルにある腎臓専門のクリニックを受診した。こじんまりとしていたが、明るい診察室だったことを覚えている。何度か通ったのだが、「すこし痛い思いをして検査する必要がある」という医師の言葉を聞いた途端に通院をやめてしまった。今にして思えば、あれはたぶん腎生検のことを言っていたのだろう。
 そこから30歳まで、病気治療に関してほぼ空白の時代になる。どうにか就職して、勢いで退職して、なんとなく独立して。そんなときに、病院の待合室で時間を浪費するのは、まったくもって無駄だと思っていた。徹夜も平気だったし、体力もあった。健康診断を受診しようだなんて考えもしなかった。でも、そうやって病気を放置することで、寿命を縮めているのだから、我ながら馬鹿なことだと思う。あとのまつりである。ただ、その当時はそれでそこそこ充実していたという実感があるのが、せめてもの救いではあるのだが。
 30歳以降の通院・検査の記録はすべて保存してある。タンパク尿の検出はずっと続いていたので、36歳のときには腎生検を受けているが、その時でも俺の腎臓が尿にタンパクをこぼしてしまう原因は特定されなかった。おそらく俺の腎臓は、もともと慎ましく生活しなければいけない程度に弱いものだったのかもしれない。

プロフィール

高山潤
函館市および道南圏(渡島・檜山)を拠点に活動するフリーランスのライター、編集者、版元、TVディレクター、奥尻島旅人。元C型肝炎患者(抗ウィルス治療でウィルス再燃、インターフェロン・リバビリン併用療法でウィルス消滅で寛解)、2型糖尿病患者(慢性高血糖症・DM・2009年6月より療養中)。酒豪。函館市(亀田地区)出身、第一次オイルショックの年に生まれる。父母はいわゆる団塊世代。取材活動のテーマは、民衆史(色川史学)を軸にした人・街・暮らしのルポルタージュ、地域の文化や歴史の再発見、身近な話題や出来事への驚きと感動。詳しくはWEBサイト「ものかき工房」にて。NCV「函館酒場寄港」案内人、NCV「函館図鑑」調査員(企画・構成・取材・出演・ナレーション)。


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