01 日記の最近のブログ記事

 無事に退院できたので総括しておく。いつか同じ症状を感じた時に役立ててもらえるかもしれない。今回は「狭心症」からの「経皮的冠動脈形成術(PCI)」という治療。
 なお、医療に関する記述は、俺の記憶やメモに基づくものなので、間違いや勘違いがあると思う。これは金をもらった原稿ではなく、個人的な手記なのでご了解願いたい。

 はじまりは正月7日明けころ。晩飯に餅を食べて寝転がって間もなくして、強烈な胸焼けを感じた。胸がつまる感じから、次第に胸が重苦しい感じに。横なっていられなくて、起き上がって苦しんでいると、妻が背中を擦ったり叩いたりしてくれて、苦しさを紛らわすことができた。3時間ほどで症状が収まった。餅は消化に悪いと言うし、食べすぎたかしらと首をかしげて終わった。
 その数日後の土曜日、午前中に鍼灸院で鍼とマッサージの治療を受けていた。所要時間は60分弱なので、その間はずっとうつ伏せになっている。治療の半ばあたりで胸が苦しくなってきた。なんだろう、朝食は食べていないので胃もたれのはずもなし。そんなことを考えながら治療を終え、いつもはついでに実家へ顔を出すのだが、だんだんと苦しさが増してきて、これはヤバイと直行で帰宅。そこから夕方まで胸の苦しみが続いた。さすがに病院へ行こうかと思ったが、土曜日であることに躊躇した。また、苦しみながら「胸の痛み」などをネット検索すると、胃の不調と心臓の不調のふたつの可能性があると知った。
 ここで正常性バイアスが全開になり、こりゃ年末年始の暴飲暴食と佳境に入っていた編集仕事のストレスで胃腸がやられたのだろうと判断し、様子見の判断をしてしまった。約6時間ほど経って、ようやく胸の苦しみがなくなった。この日から、胃腸を労るつもりで食事は「おかゆ」中心にした。
 その後のおよそ10日間、夜中・朝方・夕方と時間やシチュエーションに関係なく大小の胸の苦しみが頻回になる。何年も胃カメラを飲んでいないし、ここは面倒でも検査を受けようと、週3で透析治療をしている函館泌尿器科の主治医に、胸の痛みを報告しつつ胃もたれじゃないかと伝える。ここで良かったのは主治医の判断で、患者の妄言(胸が痛いのが胃もたれのせいだ)を取り合わずに、循環器科への紹介状を書いてくれたことだった。とは言え、俺自身は胃の検査をしたいのに、心臓を検査するなんて遠回りだなと愚かにも考えていたのだが。
 2月上旬、函館新都市病院の循環器科を受診。これまでの経過と症状を紙に書き起こして持参した。レントゲン・エコー・MRI(造影剤入り)で心臓を綿密に検査。頻回に起こる症状と画像から観た心臓の状態から、狭心症の疑いがあるということになり、なるべく早めに精密な検査を行うことを強く勧められる。こちらは呑気に胃のせいだと思っていたし、抱えている編集仕事は切羽詰まって1時間も無駄にできない状態だったので、最初は4月でどうでしょうかなどと言ったいたが、医師の「手遅れになるかも」という言葉を耳にして、可能な限り早い日程で検査入院することにした。
 入院の数日前までに印刷所へデータを渡し、3年かかった書籍の作業に目処がついた。2月20日、心臓カテーテル検査で入院。鼠径部からカテーテルを入れ、冠動脈(心臓に栄養を送る動脈)の近くまで通して、血管に造影剤を直接流して、立体的なMRI映像を撮影した。検査に要した時間は1時間ちょっとだったと思う。その後、医師から「冠動脈の重度の狭窄が2箇所。心臓の3割ほどが機能低下もしくは停止しており、心筋梗塞の状態である。なるべく早く、狭窄部位の処置が必要。手術の方法はカテーテルによるステントの留置か、胸を開いて血管にバイパスをつくるかの2つ。部位の状態が難しいので、手術は別の病院を紹介する」と説明される。ここでようやく正常性バイアスは崩壊し、そうかやっぱり心臓だったのかと覚悟を決めた。
 2月28日、市立函館病院の循環器科を受診。レントゲン・エコー・MRI。3月5日、再受診。医師からの検査結果の説明。やはり手術は必要だが、胸を開くバイパス手術ではなく、カテーテルによるステント留置で済みそうだと聴いて、すこし安心する。バイパス手術になる場合は、低侵襲(小さく切開する)の手術にしたかったので、市内で難しければ札幌か東京で手術しようと考えていた。とは言え、俺の心臓の狭窄は重度であり、すべての箇所を一度には手術できないとの説明も受けた。思えば2018年12月に独り暮らしの部屋で亡くなった弟は、後に受け取った監察医による診断書に冠動脈の疾患と書いてあった。同じだ。あいつはこの胸の苦しみを独りで耐えて、そうして独りで逝ってしまったのか。苦しくて痛かっただろうな。
 3月は確定申告(自民党の裏金脱税議員に鉄槌を!)、テレビ番組の収録、札幌出張、2ヵ月ごとに実施している腕の血管の手術(透析関連)、年度末納品の仕事、飲酒のお約束が3つ、そして当然ながら週3回の透析治療。入院はそれらをすべて解消してからにした。
 3月31日、市立函館病院へ入院。日額3,300円(税込)の眺めの良い個室に入ることができて、手術を控えながらもご機嫌だった。4月2日、1回目の手術。左冠動脈を狭くしているプラーク(石灰化)を超音波とバルーンで崩し拡げてからステントを留置する。手術時間は2時間ほどだった。痛みはカテーテルを入れる部位にする局所麻酔のプツリとしたもののみ。麻酔なしでおこなった透析穿刺の痛みに比べたら全然平気だった。術中も術後もまったく痛みなし。医療技術の進歩に大感謝だ。術後、動脈からカテーテルを挿入しているため4時間の止血が必要で、その間は身動きができないのが辛かったが、妻に来てもらって気を紛らわすことはできたのは幸いだった。
 4月4日、2回目の手術。右冠動脈はさらに重度な狭窄があり、超音波とバルーンのみではプラークを処理できず、ドリルで血管内を削る手術となった。なかなかの音をたてるドリル、胸の奥で感じる振動。貴重な体験だった。手術時間は4時間弱。手術による痛みはやはり最初だけだが、意識があるなかで4時間も身動きができないのはものすごく辛かった。さらに加えて、そこから4時間の止血時間も動きが制限されるので、この2回目の手術は本当にきつかった。
 結果、一連の手術は成功ということだった。4月6日、朝10時には退院。その夜は珍しく豚肉ではなく、わりとお高めの牛肉を少量購入して、すき焼きを食べビールを一口飲んだ。

 俺の狭心症の原因は動脈硬化である。肥満・高血圧・糖尿病・喫煙・運動不足などによって血管の柔軟性が失われ、さらに血管内が石灰化することで狭窄が起こる。三十代半ばに糖尿病と診断され、それから努力したり怠惰になったりを繰り返しつつ、動脈硬化に対処する薬は服薬してきた。また、取材でも飲酒でも歩き回っていたし、趣味で自転車にも乗っていたので運動不足という状態ではなかった。しかし、四十半ばで透析が始まってから、いっきに体力と気力が低下して、日ごとに歩く距離は短くなり、歩くスピードは後期高齢者なみの速度になって、あきらかな運動不足になっていた。また、透析患者つまり腎臓が動いていないと、血中のリンの濃度が高くなり、その結果として体内のカルシウムが過剰に溶けだし、血管内の石灰化が顕著に進むことになる。
 糖尿病(2型)にしても、動脈硬化症にしても、いわゆる生活習慣病は予防できる病気である。俺はもう手遅れだが、みなさんはぜひ過信せず予防に努めてほしいと思う。
 その根源をいつか分析したと思っているが、俺には生きることに「投げやり」な感覚がある。若いころから意識はしていた。結婚はしたが子ども得ることがなかったので、誰かのために生きたい(長生きしたい)という感覚を強く持つこともなかった。そのクセ、俺自身は弟のようにぽっくり逝くことなく、もう15年近く高額な保険医療費を貪り続けている存在である。いくつか抱える病気や障害の予後を考えると、長生きできても60歳くらいだろう。残り10年弱。その期間のすべてを活動できるとも限らない。残りの時間をどうやって使おうか。怠け者の俺に、その短い時間で成せることはあるのだろうか。
うまい酒は飲み続けたい。とは思う。
 5歳違いの弟、私の自慢の弟である高山晋が、東京の自宅で急逝しました。現時点では亡くなった日時や原因は特定されていませんが、おそらく12月21日以降に異変(行政解剖による虚血性心不全という仮所見)があった模様です。
 1978年(昭和53年)生まれの41歳でした。

 生まれ故郷函館や大学での学生時代、そして東京で大好きな雑誌や書籍の編集者・編集長として活動できた19年間。それぞれの場所で多くの皆さまに支えられ、あまりに、あまりにも短い時間でしたが充実した人生だったと思います。高山晋との記憶を共有しているすべての皆さまに深く感謝いたします。

 12月28日に東京にて火葬を終えて、お骨は函館へ帰ってきました。両親の心労も大きく、葬儀は家族のみ執り行う予定です。皆さまのご厚意はすべて辞退させていただき、そのお気持ちだけを確かに拝受いたします。いつかお時間のあるときにでも、あいつの思い出を聞かせてください。

 悲しませるくらいなら、心配や迷惑をかける方がマシだ。両親の背中を見て、そう感じた次第です。

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 子どものころのことを思い出している。ふたりで一緒のタオルケットにくるまって、俺の語る即興の物語を聴いていたっけ。こちらが飽きて話を止めようとすると、もっととせがまれて無理やり話を紡ぐ。どんどん話が訳がわからなくなって、ふたりで笑ってた。

 やりたいことがあって、それには大卒の資格はいらないので、大学を4年目で中退すると相談されたときは驚いた。卒業くらいしとけよ、とありきたりのアドバイスしかできなかった。
 その後すぐに、東京で有力な編集プロダクションに潜り込んだと聞いて、やっぱりあいつは優秀なんだなと思った。でもあとで話をしたら、卒業単位がまったく足りてなかったそうだ。戦略家であるあいつらしいやり口だ。

 俺の弟は全国誌の編集長なんですよ、函館の書店にも平積みされてますから、成人向けですけど。
 まるで俺の手柄のように、みんなにそうやって自慢するのが嬉しかった。すごく嬉しかった。でも、あいつの雑誌や書籍はAmazonか駿河屋で買ってたけれど。

 子どものころはファミコンやPC8801で「信長の野望」や「三國志」をやりたおしてた。その隣にいつもあいつが座ってた。
 近年でも帰省してくるたびにファミコンを引っ張りだしてきて、三國志2のゲーム音楽を聴きながら、横山三国志の南蛮征伐あたりの話を笑いながらするのが楽しくて。

 函館で最後に会った今年八月下旬、あいつがニヤニヤしながら持参したお土産は、東京国立博物館で開催されていた「三国志展」で購入してきた横山三国志のグッズだった。最高だった。たくさんあったものを、ふたりで山分けしたのだが、これで全部俺のものになるのか。嬉しくないよ、馬鹿め。

 ムーくん、ムーくん。不肖の兄にとって優秀な弟の存在は、子どもの時分には憎らしく感じることもあったが、大人になってそれぞれの分野で経験積んだ上で話をしたら、やっぱりあいつは頭がいいんだなと白旗を上げることができた。
 ムーくん、その優秀な思考があれば、病気だって回避できたんだよ。

 あれはいつだったか。兄弟三人でサイコロを振りながら実家の近所を散歩したな。2人が函館に帰省するたびに、俺はまたあれをやりたいなって思ってたんだ。同じ街角に、それぞれ違った思い出があったり、時を隔てても似たような記憶があったり。それは俺の執筆テーマでもあったんだ。

 あいつに教えてもらった豚カツもモツ煮込みも、いつか店をめぐって食べておきたい。東京であいつと飲み歩いたのは1回だけだった。両国・森下界隈で五軒くらいハシゴして、夜道をぶらぶら散歩しながら帰った。あいつは近年お酒を飲むようになって、俺は酒をがぶ飲みできない身体になって。

 あいつが小学生のころに描いた漫画「ファミコン野郎」。ゲームを取り合う兄弟の日常(闘争)が描かれ、見事に機器を奪取した弟は徹夜でゲームをする。最後のコマは顔のアップで、目が血走っていた。「目真っ赤」という添え書きが俺たちの笑いのツボだった。いつもそう言われて親に叱られていたから。

 遺影を選ぶ。
 十年前に写真館へ行って家族みんなで撮った写真。あの時、これが遺影になるのか、なんて冗談を言っていたわけだが。まさか、老いた両親よりも先に、おまえの写真を選ぶことになるなんて。親不孝するなら俺だろうと思っていた。
 あの背中を見ていたら、先には逝けないよ。
 退院したなと思ったら再入院だ。もちろん予定通りなのだが、その予定も前回の入院中に決まったことなので、ここのところは腎臓の野郎に翻弄されながら日々を過ごしている(ちゃんと機能していないくせに)。
 29日は桜満開の五稜郭を生ビール片手にゆっくりと散歩し、その足で日が沈む前に店を開けてもらった行きつけのバーへ(梁川町 BarCozy)。生ビール、ジャパニーズウイスキーでハイボール、そしてシェリー酒のティオペペを5杯くらい呑む。ほどよく酩酊したまま自宅まで歩いて帰った。透析が始まれば、こんな酔いどれ行為は許されなくなるのだろう(か)。充実した午後だった。
 入院前日30日の朝は軽めの二日酔い。仕事のやる気は起きず、溜まっていたテレビ録画を視聴しながら入院の荷造りをする。前回の荷物を完全にほどいてはいなかったので、入院中の必需品はあちこち探し回らなくてもすぐに揃った。朝飯はパンと卵焼き、昼飯はもやし炒めと低たんぱくラーメン、夜はおじや。退院後の暮らしを話し合いながら早めに就寝。
 明けて5月1日。6時起床。ピーさんと遊びながら出かける仕度。9時40分に家を出て、50分には病院に着いた。すぐに入院手続きをして、ほどなく病室へ。前回よりも長めの入院になるので、今回はいつものように窓側ベッドを希望しておいた。看護師長さんがやって来て、窓側は手配がつかなかったので個室へ、と案内される。おっと。そこは一泊おいくら万円ですか、と即座に確認してしまった。一泊1,080円(自己負担する差額ベッド料金)ということで、バカ高いわけではない。とは言え、部屋も立派ではない。ただただ個室なだけだ。とりあえず、看護師さんに確認した上で、床頭台や電動ベッドの位置を自分好みのレイアウトしなおす。やはり机は窓際が良い。ベッドも部屋のど真ん中にあったが(介助がしやすいためだろう)、俺は自分で寝起きができるのでベッドを壁際に寄せた。パイプ椅子に愛用の座布団を敷いて床頭台の机に向かうと、存外にしっくりくる。4人部屋の窓側ベッドが空き次第移動するという約束だったが、この快適さは捨てがたくそのまま居座ることにした。連休明けには予約が入っているので、それまでということだが。
 前回の手術は全身麻酔ということで、とにかく準備することが多かった。万全とはああいうことを言うのだろう。今回は局所麻酔での手術なので、事前準備も四分の一くらいで済んだ。全身麻酔の素晴らしさを経験したので、局所麻酔には「手術の途中で麻酔の効き目が弱まって痛みがひどくなる恐怖」という悪夢を想像して、すこし余計な心配をしてみたり。夕方、担当医の一人が回診に来る。明日の執刀医のようだ。CAPDおよびAPDの運用(とくに併用)について質問をいくつか。どちらの透析方法が有意に効果的か、という質問に対しては、逆にどちらがライフスタイルに合っているかと問い返された(それぞれで透析のために拘束される時間や回数が異なる。いずれも自宅や外出先でできるのは同じ)。つまりは、効果に大きな差異はないのだろう。このあたりは追々さらに確認してみるつもりだ。外での仕事が立て込んでいるときはAPDで、家で落ち着いて仕事をしているときはCAPDで、そういった併用ができないかと考えている。さて、前回と今回の手術で、腹膜透析のための準備(お腹の中にカテーテルを入れて液体の常設出入口をつくる)は完了だ。成功を願いつつ就寝した。
 翌2日、6時起床。普通に朝めしを食べて、歯を磨き顔を洗い手術着に着替えて(今回は丁字帯は必要なし)準備完了。点滴針は右手甲で一度失敗して看護師交代。左手甲で成功。いつもよりちくちくと痛い。入れているのは抗生物質との由。9時20分、手術室へ歩いて移動。前回ほどの高揚感がない。昨夕の執刀医が迎えに来る。読者の皆さんの総意として、手術のついでに脂肪も吸引してもらえと言われたと伝えると、それは身体に負担がかかるからおすすめできないと言われたので、泣く泣くあきらめた。9番の手術台に案内されて、階段を使ってよじ登る。前回の手術では直前の準備が、テレビで見たことがある救急救命特番のような雰囲気で進んでいたが、今回はすこし余裕がある感じだ。しかし、これから意識のあるまま腹を切られるのかと思うと、だんだんと緊張感が滲んできて呼吸が荒くなってしまった。深呼吸を繰り返して平常心を取り戻すように努力する。「腹膜透析用カテーテルの取り出し術を始めます。予定時間は30分です。」のようなことを執刀医が言って手術が始まった。麻酔をします、と言われて腹にぷつりと針をさされた瞬間が痛かった(7鼻毛)。ゆっくり深く効かせていきますと言われて、なるほどだんだんと痛みは引いて、押されたり引っ張られたりする感覚だけが残る。焦げ臭い匂いがした。おそらくいま切り開いたのであろう。ぐいぐいと腹を押される。カテーテルを引っ張り出すようだ。イタタタた(断続6鼻毛)。局所麻酔が追加されるがちくりちくりとした痛みは続く(断続6鼻毛)。深い部分なのですこし痛みます、と言われて、これは我慢する時間帯だと理解する。ここが今回の手術の山場で、そこからは痛みはほとんどなかった。傷口を縫っておしまい。自分で手術台から降りて車イスに乗る。部屋に戻ると10時15分くらいだった。※「鼻毛」は痛みの単位です。
 すぐに点滴も外れて、いきなりの自由を得た。たまに傷口がずきりずきりと痛むが、前回の苦痛(おもに尿瓶が上手に使えない精神的苦痛)に比べると気楽。痛み止めを飲む。さっそく、お腹から出ているカテーテルが機能しているかを確認するために透析液を注入する。どうやらこの病院では腹膜透析の実績が少ないらしく、病室にわらわらと見学の看護師さんが訪れて、「久しぶり」「初めてだから見ておきなさい」「緊張する」などと発言していた。腹膜透析の弱点は、身体の内部に通じる出入口が外に晒されている点だ。そこを通じて悪いものが体内に入り込むと、腹膜炎などを発症して腹膜透析を断念するしかなくなる。そのために、ヒューマンエラーによる汚染を回避するために、カテーテルをつないだり切り離したりする手順が機械化(自動化)されている。昨日のうちにマニュアルを読み込んでおいたので、看護師さんの作業を見ながら操作手順を確認できた。非常に簡単だ。とにかく、清潔さに配慮できれば問題ないだろう。1.5リットルの透析液を入れる。CAPDの場合は、液の注入も排出も圧力をかけるわけではなく、高低差を利用して出し入れをする。結構な勢いで流入してお腹が膨らんだ。10分かからない。500mlの缶ビールなら三本、もしくは生ビール中ジョッキで四杯くらいを、いっきに飲んだのと変わらない状況のわけだ。この状態から腹いっぱい食べたり飲んだりするのは苦しそうである。CAPDだと、この状態をキープしていくことになるので(4〜6時間ごとの液の入れ替えがある)、腹回りだけでも痩せて凹ませないと格好は悪いかもしれない。ただし、APDに問題なく移行できれば、透析液を留置させておくのは就寝時だけになるので(眠っている間に機械が自動的に透析液を何度も入れ替える)、この懸念は解消されるのだが。廃液には30分ほどかかった。1リットルくらいは一気に流れ出てくるのだが、そこから寝返りをうったり、立ち上がったり、身体をひねったりして、絞り出す感じ。肛門の内側あたりがきりりと痛むが、これはカテーテルの先端がそのあたりにあるためらしい。痛みは排出がちゃんとおこなわれている証拠でもあるという。はじめて体内から出てきた透析液は濁りもなくて透き通っていた。その後すぐに二度目の液注入。4時間後に廃液すると、今度は1.5リットルが1.74リットルになっていた。浸透圧によって身体の水分を排除(除水)したことで量が増えたわけである。さらに、もう一度の注入。4時間後の19時に排出。1.7リットル。透析によって約500g痩せたということになるのだろうか。この日はこれでおしまいで、夜は液を注入せずに就寝ということに。
 18時ころ腹膜透析の機器を提供しているメーカー(バクスター)の人が来て、看護師さんたちにAPD(就寝時に全自動で透析液を出し入れする機械)の操作手順を説明をしていた。大きさはひと昔前のA4のファクシミリ付きプリンターくらい。どっしりと重い。メーカーの人に宿泊を伴う外出先での透析について、どのような対応が取れるのか確認してみた。CAPDの場合は小型の接続機と透析液だけを持参すれば、どこでも透析を続けることは可能だ。接続機は手荷物でも持ち運べる。APDの場合は自動車での旅行なら可能だろう。いずれの場合でもネックになるのは透析液の持ち運びである。一日分で8〜10リットルだから、数日にわたる旅行の場合はこれを手荷物で持ち運ぶのはムリだ。預け荷物にしても、エキストラチャージが高額になるだろう。そこで、メーカーのサービスとして、滞在先に透析液を届けることができるのだという。国内ではだいたいどこでも問題ないようだ。海外へも手配が可能だが、日本から透析液を送るわけではないらしい。各国のバクスターで透析液を準備するので、いま使っている日本仕様の透析液および機械とは異なる場合が多いとのこと。となると、カテーテル接続部分の付替えが必要で、かつ透析液の手配にも最短で8週間かかるということだった。もちろん、前提として主治医の許可も必要になる。かなり面倒くさいことになったな、と思いつつも、海外渡航がまったくできなくなるわけではないことに安堵する。取材と旅行の可能性がある中国・台湾・ヨーロッパ諸国での環境について確認してもらうことにした。お忙しそうですね、と言われたが、この先も忙しく働けるかどうかはわからない。
 ということで、2018年5月2日、慢性腎不全による人工透析が始まったことで、私は身体障害者になったのでありました(まだ認定前だけど)。
 手術前日に4000字ほど入院日誌を書いているうちに、どんどん不安が募ってきて緊張してしまった。原稿の締め切り直前と同じ胃の痛みを感じつつ。ただ、消灯後に懸念だった便秘を払拭する快便があったので、その嬉しさからもやもやした不安は雲散霧消してよく眠ることができた。
 5時半過ぎにアラーム(音なし・振動あり)で起床。良い天気で、絶好の手術日和だ。歯を丁寧に磨いて顔を洗う。いつもは熱湯が出る蛇口から、ごくごくぬるい湯しか出てこない。早朝に顔を洗ったことがなかったので、これがいつものことなのかもしれないが、かるく不機嫌になる。病室も寒いし。耐寒訓練に来てるんじゃないぞ。
 6時、看護師が来て胃薬と血圧の薬を渡される。ウーロン茶で飲み干して、ここからは手術終えて許可が出るまで飲水不可となる。大きな袋に入ったワンピース状の手術衣を渡されて着替える。下着は丁字帯(Tではない。形状はTだが。ちなみに、T字路ではなく丁字路が正しい。)というフンドシ状のもの。さらに、膝から下を圧迫するための伸縮性のない白のストッキングが入っている。
 7時、浣腸をされる。大きく「ゆ」と書かれた銭湯トランクスを履いていたので、看護師さんが笑っていた。すぐに便意をもよおしてトイレに駆け込むが、わずかにコロリと出たのみ。点滴が始まる。やはり手の甲から。最初に差し出した左手の甲に針を刺したものの「すいません。失敗っす。」と言われて断念。「これはプロを呼んで来ますんで」と言われて、お前もプロだろうにと心のなかでつぶやく。「ちょっと右手を見せて、あ、これなら全然いけるっす」。ということで、「プロ」を呼ぶことなく、その看護師が点滴の針を指した。右手の甲は何度も採血されていて、痛みが強いのだ。なんやかんやで20分ほどかかったと思う。
 8時半過ぎに妻が到着。ペットボトルとストローについて話し合っているうちに、9時10分となり看護師が迎えに来た。手術室へは歩いていくのだが、例の丁字帯がずり落ちそうで厄介だった。看護師さんが病衣の上から丁字帯の紐を掴んでくれたが、まるで犬の散歩でもしているようだ。途中、指輪やピアスとか身体に装着しているものはないかと問われたので、頭に手をやったら笑っていた。
 「奥さんはここまでです」。手術室に入る。ここで看護師さんにメガネを渡す。しばし座っていると、手術担当の看護師に手術室へと連行される。メガネがないので視界はぼんやりだ。よく見えないおかげで恐怖感はない。「昨日は眠れましたか」と問われて、しっかり眠ったというのが照れくさかった。ここは緊張して眠れなかったという言葉を期待されているのではないだろうか。そんな余計なことを考えつつ、手術台に乗った。

 気がついたら終わっていた。

 手術は硬膜外麻酔から始まった。かっぱえびせんのパッケージに描かれているようなエビの姿勢になり、背中をぐいぐいと押されるような感覚。プツリ、ピリっ、とした痛みが何度かあった。薬液が注入されると、腰周辺が押される感じがした。我慢できないほどの痛みではなかったが、何度か痛いとつぶやいておいた。
 再び仰向けにされた後、酸素マスクをつけられて、深呼吸をさせられる。「段々とねむくなりますよ」と言われて、いったいどのタイミングで眠ってしまうのだろうと思っていたら、気がつけば手術が終わっていた。最後の記憶は、右の手首の少し上あたりから指先にかけて、激しく痺れるような痛みだ。それは、事前に伝えられていた。血管の痛みだという。
 9時15分に手術室に入り、病室に戻ってきたのが12時である。事前に1時間程度と言われていたので、すこし長くかかったようだ。分厚い脂肪に手間取ったのかもしれない。手術台から「1,2,3」の掛け声とともにベッドに移される。口には酸素マスクがされたままだ。ガラガラとベッドを押されて病室へ向いながら、自由に動く両手で腰や足を触るが、まったく感覚がないのが面白かった。顔を触ると目に涙が滲んでいた。よだれも出たのかもしれない。病室に戻ると妻がいたので「ただいま」と言った。
 病室に戻ってまず最初に「記録しておこう」と思った。妻にパソコンを開いてもらって口述筆記でメモを取った。この文章の手術とその後に関する記述はそれを元にしている。つまり、全身麻酔の直後でも、頭はすっきりと回っていたということだ。手術前に「全身麻酔は身体に大きな負担がかかるそうだよ」と幾人からか言われたが、自分としてはエビデンス不明で懐疑的だった。初の経験だったが、全身麻酔の寝覚めは悪いものではない。もちろん、麻酔に合わない体質の人もいるだろうが。もうひとつ。手術後二日目から首と右腕に筋肉痛が出始めた。もしかすると、全身麻酔中の無意識下でもがき苦しんだのかもしれない(例えば気管挿管などで)。だとするなら、そこまで苦しい思いを、こんなに楽ちんにスルーさせてくれる全身麻酔は素晴らしい技術である証左だろう。
 全身麻酔から起こされると、すぐに意識がはっきりとし、まず最初に「面白い」という言葉をつぶやいていた。惜しむらくは、メガネを預けてしまっていたので、手術室の様子が全く見ることができなかったこと。手術台に寝かされて、執刀医と看護師と麻酔医の顔を見上げるシーンは、まさにドラマや映画の患者視点のカットそのものだった。麻酔から醒めた直後は、理由のよくわからない高揚感があったように思う。
 病室に戻り落ち着いてから自分の体の状態を確かめる、腰から下の感覚がない。腹部はしびれたような感じ。少し空腹を覚えている。鼻が詰まっていたので、鼻をかんだら鼻血がでていた。気管挿管の影響か、喉が痛くてえずく(オエッとなる)感じがある。妻に問うと、脚はまっすぐになっていると言うが、自分としては膝を曲げて足を立てているように感じていた。そうだ、と思いついて、寝ている姿を撮影してもらった。病室に戻ってから1時間ほどして、少しずつ痺れが増してきた。腹部には圧迫感を感じている。痛みのようなもの、そして、便意のようなものを感じる(しかしその後2日たっても便秘中である)。
 手術から1時間後、左腹部の傷みが強くなってきた。下半身の感覚は、お葬式で二時間正座したままお経を聴かされた後に、焼香のために立ち上がった時の足の痺れを三倍強くした感じ。最近の葬儀はパイプ椅子に座るし、昇降台も席まで回ってくるから、足の痺れを意識する場面は少なくなった。
 14時、付き添っていた妻にiPhoneを渡して、1時間ほどポケストップめぐりをしてきてもらう。今回の入院では散歩に出かけられないので、ポケボールの枯渇が気になっていたのだ。病院の敷地内ではかなりの頻度でポケモンに遭遇するので。15時、ミッションを終えた妻は帰宅した。

 術後しばらくして気がついたのだが、尿道がひりひりと痛むようだった。どうやら手術中に尿道へのカテーテル(バルーン)を挿入されたらしい(翌日、医師に確認)。これは事前に病院との攻防があって、こちらとしてはカテーテルを挿入される措置を頑なに拒否していた。痛そうだから。幾度かのやりとりの末に、医師から挿入なしでも手術可能という言質をいただいた。ただし、手術が長引いた場合はその限りではないということだった。そのような背景があったので、手術中に挿入し麻酔が効いている間に抜いたものと思われる。結局のところ尿道は痛むことになったので、これなら術後もそのままでも良かったのかもしれない。ベッドから起き上がってトイレには行けないので、排尿は尿瓶を使うことになる。早ければ術後数時間で車イスを使えるという話もあったので、どうにかそこまで我慢しようとしたが、尿意の波は次々と押し寄せてきた。もうだめだ。ついにナースコールを押して、尿瓶を股間にあてがわれた。が、出ない。電動ベッドの角度を調整して、上半身が起きた姿勢になってみたが、やはり出ない。そのうちに、看護師さんは尿瓶を俺に預けて去っていった。尿意はある。しかし、排尿の仕方を忘れてしまったかのように、うんともすんとも出ない。これは厄介なことになったぞ。練習をしておくべきだったのだ。ここから尿瓶との闘争は19時まで続いた。
 尿瓶に排尿できない原因は大きく二つある。ひとつは尿道の痛みで、排尿時にはさらに染みるように痛いだろうと予想でき、それを恐れて踏ん切り(尿なのに)がつかないのである。もうひとつは、ベッドの上で服を着たまま布団の中で排尿するという非日常性的な行為に対して無意識の抵抗感があることだ。前者の痛みについては自分の中で変換法則(頭でごまかす方法)があって、「この痛みは鼻毛抜き3本分だ」などと測定していると、なんとなく我慢ができる。鼻毛を抜くのはかなり痛い行為である。高校生のときに夏目漱石の日記、それから内田百閒の随筆を読んで、文筆家への憧れから鼻毛を抜くようになった。その癖が四半世紀続いており、鼻毛抜きに関してはスペシャリストを自認している。そんなわけで、瞬間的な痛みについては「鼻毛抜きに比べたら、ことさら痛がる必要はない」と念じることで、脳を騙すことができる。尿瓶障壁のもう一方の要因解決が困難である。これは「慣れ」の問題だ。いくつか自分なりの工夫を重ねてみた。まずは脳内イメージの変換。尿瓶をあてがい目を閉じて「ここはトイレだ。清潔で快適なトイレだ。」と頭の中で描いたもののダメ。幼いころ「シー、シー」と言われて放尿した記憶を掘り起こすもダメ。小田原城攻めの際の秀吉と家康の放尿(これはもしかして北条とかけてあるのかしら)する場面を脳内上映してもダメ。しからばアプローチを変えて、非日常には非日常をぶつけてみようと考えた。SMの女王様を登場させて排尿を強制させようと試みたが、この女王様が勝手に「ほら、もっと我慢しなさい」などと命じてくるので失敗。結局は膀胱が破裂するくらい尿が溜まったことで、致し方なしという感じで尿瓶に放尿できた。その後、21時ころに車イスでの移動許可が出て、トイレに行くことが許されたのであった。
 昨夜、消灯を過ぎて1時間ほどだろうか。同室の寝たきり高齢男性が、誰かの名前を何度も何度も呼び始めた。自宅にいると勘違いしているのか、いまが昼間だと思っているのか。日毎に見当識障害がひどくなっているような気がする。ずっと大きな声を出しているので、さすがに耐えられなくなってナースステーションに知らに行く。看護師が駆けだして行った。
 その後、男性は別の部屋へ移動させられた。この二、三日で加速度的に障害が進んだ気がする。これが認知症というやつなのだろうか。そう言えば、あれはたしか三日ほど前、付き添いに来てた奥さんに「俺はもうダメだ」と男性がつぶやいているのを聴いた。それからだろうか。
 もし俺がと、考えるだに胸が苦しくなる。いつどうなっても、早めに覚悟と諦めをつけられるように、身体と頭と口が動くうちは精いっぱい自分の役割を果たそう。そう考えるしかない。いまのところは。部屋が静かになった。ある種の思考がぐるぐると頭をめぐっている。早く眠気が訪れますように。

 6時起床。ぜひ退院後も、この生活サイクルを保ちたいものだが、あっという間にいつも通りの時間帯で生活し始めるだろう。便機(排便チャンス)が訪れたのでさっそくトイレへ。踏ん張るがころころしたものがすこし。勝負は引き分けというところか。
 体重測定99.8kg。入院26日目、退院の朝にしてようやく0.1トンを割った。当初のもくろみでは7kgほどは減らせる皮算用をしていたが、インスリン注射は効率よくエネルギーを吸収し貯め込む作用をしっかり発揮していたようだ。退院後もインスリン注射は続くので、これはかなりの節制をしなければ、減らないどころかあっという間に太りだすのではなかろうか。それを避けるための工夫はいくつか考えてあるので、実生活で実戦投入していきたい。

 7時の血糖値101。悪くないのだが、不思議なのは昨夜就寝前の血糖値95から上昇していること。もちろんなにも食べていない。なんらかのカラダの作用なのか、測定器の誤差なのかはわからない。12月2日から1日4回の測定を続けているが、これは初めての例である。
 退院してしまうと、血糖値測定は1日に2回までが保険適用範囲となる。それ以上、つまり入院中のように日に4回測定しようとすると、適用を越えた2回分は診療外として100%自己負担になるわけだ。測定器などはネット通販でも手に入れることができるが、毎回の測定に必要なセンサーチップの販売が日本国内では規制がかかっていて、高度な医療器具を扱えることろでしたか購入できない。つまり、病院か処方箋薬局かだ。
 さらには、この家庭で自分でおこなう血糖値測定(血糖自己測定:SMBG)は、2型糖尿病の俺の場合はインスリン注射療法がおこなわれている間だけ保険適用となる。インスリン注射が将来的に必要なくなった時、もしくは誰かが予防的な観点から血糖値を測定しようと思っても、それは自己負担でおこなうしかないということだ。そして、この特定の場所でしか購入できないセンサーチップがお高いと来ている。自己負担で1回分100〜150円。
 ただ、抜け道もあって、海外から自分で輸入してしまうという方法もある。血糖測定器は各種メーカーが製造販売しており、それぞれにセンサーチップの規格も異なるのだが、日本でも海外でも同じ機器が流通している。日本国内では定められたところ以外ではセンサーチップの販売を規制されているが、国外の業者(もしくは個人)から自己責任で購入することに規制はない。さらには、海外からの送料や手数料を加えても、国内で同一品を購入するより低コストで入手できる。

 7時44分、朝食配膳。インスリン(ヒューマログ)8単位を注射。

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◆ごはん195g(半分残す)、味噌汁、はんぺん焼き、ツナとキャベツの煮物、野菜ビーフン、ふりかけ、牛乳。

 9時、事務の人が請求書を持ってくる。昼食の分は入っているかと問えば、つくり直して来ますとのこと。昨日、退院が決まって(決めて)から、とくに確認がなかったのでたぶんこうなると思っていだので、こちらから確認をしたわけ。入院は(おそらく)午前0時をまたぐと1日追加となるので、午前中早くに出てしまうのはもったいない気がしてしまう。食事も治療ということで、もう1食分の治療を受けて退院する。

 9時半、血圧測定138/77。やはり朝は高め。
 退院ということで、次回の診察(4週間後)までの薬をもらう。いつもの薬に加えて、血糖測定器とか針とか酒精綿とか、いろいろどっさり大荷物に。大きめのスーツケースだが満杯になってしまった。この他にリュックを背負って帰る。

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大きくなった。

 11時前、改めて請求書が出てきたので、1階の窓口で精算。カード払い。マイルが貯まります。

 今日の夕飯はどうしようか、などと考えながら、ことさらのんびりとした午前中を過ごしてみる。ああ、年末年始を無事に乗り越えることができるだろうか。不安は大きいし、自信はまったくないが、せっかく26日間も入院したのだから、この成果をなるべく長く守り継続させたい。二度と入院しない、とは言えないのが情けないところであるが。

 12時の血糖値測定104。
 12時36分、入院中最後の昼食配膳。退院後も続くインスリン(ヒューマログ)8単位を注射。

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◆ごはん195g、サバのもろみ漬け焼き、肉さつま、大根おろし。生野菜を追加。

 はやる気持があるのだろうか。いつもより早く、それは入院前の早さとも言えるのだが、がつがつと食べてしまって、これはいかんと何度か箸を置いた。

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毎食このようにして生野菜を食べていた。蓋を皿にして。

 13時10分、ナースステーションに「なるべく出戻りしないようにします」と挨拶して退院。病院の正面入口にあるポストに、レンタルしていたモバイルWifiを返却のために投函。格安だったが回線が細くてつながらないことも多かった。
 病院前で出待ちしているタクシーに乗車。後部のトランクにスーツケースを入れるのが重くてたいへんだった。なかなかにボロボロの車輌で、でも運転手は気さくな爺さんで話が弾んだ。13時30分、26日ぶりの完全帰宅。

 荷物をほどき、仕事の資料や大量の薬を整理しているうちに16時。ようやく落ちついて、1週間以上前に届いてたMacBookProのセッティングに着手する。その間、ずーっとピーさんがまとわりついてた。かわいい。

 自宅で初めての血糖値測定。17時の血糖値74。低すぎ。低血糖症状はない。
 17時26分、インスリン(ヒューマログ)8単位を注射して、おまちかねの夕食スタート。自宅での夕食としては、すごく早い時間帯だ。

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◆酢キャベツ(炒めもの)、ベーコン(1枚)、鴨の生ハム(5切れ)、赤ワイン2杯、パスタ(カーボフ)乾麺60g、ポテトチップス14g。8単位640kcal。

 やっぱり脂はうまいなぁ。
 カーボフというのはTVでもコマーシャルが流れている低糖質の乾麺パスタ(スパゲティ)。入院中に気になって通販しておいた。60g茹でると2単位160kcalなので、ふつうのパスタよりも3〜4割のカロリーオフ。食材としては「おいしい」ものではない。指定通りの茹で時間(10分)だと固すぎるようだ。ビーフンのような食感。6本だけ取り出して、あらためて茹でてみる。12分ではあまり変化なし。15分茹でると、だいぶやわらかくなった。次回は15分でつくってもらおう。

 ワインが効いたのか、自宅という安心感なのか、食後はピーさんに顔を踏まれながら睡眠。注射のために21時にアラームをセットしていたが、起きたのは22時だった。
 22時の血糖値93。就寝前として低い方だろう。
 入浴、就寝。

 入院日誌を全部読んだ人はいないと思いますが、毎日それなりのアクセスをいただいて感謝。おつかれさまでした。
 1時ころ同室の寝たきり男性がナースコールで看護師を呼んで「何時だ」と訊ねる。「1時ですよ」「昼か」「夜の1時ですよ」というやりとり。看護師が部屋から去った後、男性ががちゃがちゃと物音をたてていると思ったら、「もう昼過ぎたぞ。早く来い」と怒鳴りだした。どうやら自宅へ電話をしているらしい。そこから怒気をはらんだ問答(もちろん電話の向こうの声は聞こえない)が3分ほど続いて、ようやく深夜1時だと気がついたみたいで電話を切った。
 それから2時間ほど眠れなくなってしまって、仕方がないとは言え迷惑なことではある。やれやれと眠りに落ちたころ、またもや「早く来い。のどが乾いた」という電話の声で起こされる。それが朝4時過ぎ。

 6時、重い頭を抱えながら起床。検尿。採血。
 体重測定100.2kg(前日比なし)。
 7時の血糖値92。低い。血圧143/90。高い。
 7時48分、朝食配膳。インスリン(ヒューマログ)8単位注射。

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◆ごはん195g(半分残す)、味噌汁(豆腐とネギ)、ししゃも(たぶん正確にはカペリンという別種の魚でカラフトシシャモとも呼ばれる)、白菜の炒めもの、とろろいも、牛乳(在庫へ)。生野菜を追加。

 クリスマスの朝食にししゃもを持ってくる管理栄養士の心意気。絶対に「敢えて」やっているはずだ。おもしろい。

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 10時、血圧測定113/69。落ちついた。
 12時の血糖値101。
 12時32分、昼食配膳。インスリン(ヒューマログ)8単位を注射。

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◆ごはん195g、ローストチキン、ポテトグラタン、レタスサラダ。生野菜(キャベツ千切り)を追加。

 お、裏切られた気分。クリスマスっぽいメニューが出てきた。嬉しいけど。

 外は冬の嵐の気配。外出しない。それは荒天のせいではなくて、今日確実に主治医に会っておきたいから。今朝の採血の数値がよければ、明日の退院を申し出ようという魂胆。
 15時、主治医の回診。まずは採血の結果から。「コレステロールはマイナスです」と笑って報告。素晴らしい食事療法の成果。血糖のコントロールも良い。「あとはいつでも退院できます」と言いながら、主治医はカレンダーの28日29日あたりを指さした。そこで間髪入れずに「では明日で」と要望。主治医は笑いながら「高山さんもさすがに限界のようですね」。その通りです。予定ではあと2日だったが、ここらが潮時だろう。入院前の目標は体重を除けば概ね達成された。あとは退院後の生活次第ということだ。明日の退院までに、せめて体重0.1トンは切っておきたいところだが。

 17時の血糖値116。
 17時50分、夕食配膳。インスリン(ヒューマログ)8単位を注射。

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◆ごはん195g(半分残す)、味噌汁、魚の幽庵焼き、ふき油炒め、おひたし。生野菜を追加。

 実は日誌には書いていなかったが、こっそりと「たらみ 糖質&カロリー ゼロ ナタデココどっさり グレープフルーツ味」というゼリーを、毎食2〜3口くらいずつ食べていた。この商品は優秀で、カロリーゼロなのは当然として、糖質もゼロという素晴らしさ。人工甘味料の甘みは強めだが、グレープフルーツの香りと酸味でわざとらしくない味に仕上がっている。ナタデココの食感も食べる楽しさを演出している。通販で箱買いしようとしたが、どうやらローソン限定のようで(もしかしたら量販店やドラッグストアにはあるのかもしれない)、類似品しか手に入らなかった。

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 食後、明日の荷造りでもしようと思ったが、ざっと見まわすも今からやるほどではなさそうだ。先週半ばにタクシーで一時帰宅するときに、使わなそうな荷物はあらかた持ち帰ったので、仕事の資料も含めて大荷物にはならなそうだ。途中で追加した大判のタオルケットが嵩張るくらいか。いずれにしろ、病院の前からタクシーに乗ってしまうので荷物が大きくても重くても、それほど支障はないだろう。

 21時の血糖値95。インスリン(トレシーバ)18単位を注射。
 ばたばたした病棟もようやく消灯。
 6時起床。体重測定100.2kg(前日比−0.2kg)。
 7時15分、ようやく血糖値測定96。すばらしい。
 7時45分、朝食配膳。インスリン(ヒューマログ)10単位を注射。

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◆ごはん195g(半分残す)、味噌汁(ふのり)、魚肉ソーセージのソテー、おからサラダ、しろ菜あえもの、ふりかけ。

 8時半、血圧測定141/78。やはり朝は高い。

 今日は病室に引きこもっている予定なので、食事量をいつもよりさらに控えめにしようと思う。魚肉ソーセージは糖質が高いと読んだ気がしたので、4割ほど食べて残した。この食材はなにか手を加えるよりも、あのオレンジの包装を噛み切って手づかみで食べるのがいちばんうまい。

 10時前、また血圧測定128/70。朝の測定時間が押していたのだろう。

 午前中はデザイナーに渡すためのサムネを切っていた。サムネはデザインとかレイアウトの素になる粗々な指示書とか設計図みたいなものだ。ラフデザインとまではいかないが、なにをつくってほしいかをデザイナーに伝えるには、サムネを渡すのがいちばん手っ取り早いと思っている。デザイナーからサムネから何段階もブラッシュアップされたデザインが出てくるとすごく嬉しい。やっぱり、プロの仕事がいちばんだと確信できる。

 12時の血糖値94。いいねいいね。
 12時26分、昼食配膳。インスリン(ヒューマログ)10単位を注射。
 献立表にはパンとハンバーグとあったけど、さてなにかしら?

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◆ごはん195g(半分残す)、チキンソテー、カリフラワーのサラダ、牛乳。

 ここはパンでしょうが。ハンバーグはあきらめるとしても、パンくらいは許してくれよ。この昼めしで病院食70食目だが、今回の入院ではまったくパンが出ない。うどん2回のほかは、すべて米飯。
 そんな昼めしを食べながら、なんとなくラジコで競馬中継を聴いてたら、ソンタクって馬が出てきて牛乳を吹いた。

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ピーさんの写真が届いた。

 食後1時間ほどパイプイスに座ったまま眠ってしまう。首が痛い。
 14時半、仕事にも飽きてどうにもモヤモヤした気分だったので、1階まで降りてドトールでブレンドコーヒー。すこしだけ気晴らしができた。20分ほどで病室に戻って、仕事の続き。

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 16時、看護師が来てインスリン変更のお知らせ。食直前に3回投与しているインスリン(ヒューマログ)を10から8単位へ、就寝前のインスリン(トレシーバ)を20から18単位へ。もちろん主治医の指示なわけだが、医師はいつ休んでいるのだろうと不思議に思う。完全なオフというのはあるのだろうか。

 17時の血糖値105。いいねぇ。
 血圧測定121/78。
 17時51分、夕食配膳。インスリン(ヒューマログ)8単位注射。

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◆ごはん195g、煮魚、カボチャのミルク煮、白菜と豚肉の炒め煮、おひたし。生野菜を追加。

 見事に茶色い食卓。いいんだ。おれは病人だ。

 21時、血糖値測定130。インスリン(トレシーバ)18単位を注射。
 2種のインスリンとも夕飯以降から各2単位の減量となった。たぶん、これは覚えやすいように下一桁を合わせているんじゃないかと思う。
 6時起床。血圧測定132/85。二度寝。
 7時起床。血糖値測定102。いいじゃないか。
 体重測定100.4kg(前日比−0.6kg)。入院後の最軽量を更新。便秘傾向だし微増だと予想していたので驚き。体重計の誤作動もありうる。三回計り直した。

 7時49分、朝食配膳。インスリン(ヒューマログ)10単位注射。

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◆ごはん195g(半分残す)、味噌汁、サバの塩焼き、モロヘイヤおひたし、キャベツとひき肉の炒め煮、ふりかけ(在庫へ)、牛乳(在庫へ)。生野菜を追加。

 9時半、血圧測定140/80。じわじわ上がってる。いま血圧が高いな、という自覚症状もある。血圧をなだめるか、腎臓を守るか。悩ましいところなんだろう。

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 ちなみにこれがインスリン注射。とにかく驚くほど痛くない。人間にとって痛みとは発明の母なのかもしれない。

 12時の血糖値101。素晴らしいじゃないか。
 12時23分、昼食配膳。インスリン(ヒューマログ)10単位を注射。

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◆ごはん195g、かに玉あんかけ、ミツバおひたし。生野菜を追加。ふりかけを追加。

 献立表にはオムライスとあったが。
 昼食前の血糖値が低めで、午後から自宅まで歩かなくちゃいけないので、ごはんを残さず食べる。在庫のふりかけを投入しても食べきれず、こっそり隠して持っている減塩昆布だし醤油を数滴ふって口に押し込む。こういうメシもうまい。
 かつお節に醤油を垂らして熱湯をかけてさらさら食べるのも好きだ。ジンギスカンがメシのおかずだったころ(いまはビールの相手なので)は、肉の質なんかはどうでもよくてベルの「成吉思汗のタレ」さえあればメシを何杯でも食えた。
 そう言えば、昔のラム肉(丸く整形された冷凍肉)は筋張っていて、いまより品質は悪かった気がする。安かったしね。タレにつけると虹色の脂が浮くんだよな。

 13時、病院出発。気温は高め。幹線道路の車道にはすっかり雪はなし。除雪をサボっている歩道は最悪の状態。それでも街中はだいぶ歩きやすくなった。五稜郭を過ぎて亀田川沿いの遊歩道ルートに向かう。猛吹雪の時に失敗したが、今回もこのルート選択が誤りだった。踏み固められた細い道筋が、暖気で解けて路盤が弱くなり俺の体重には耐えられない状態に。ひと足ごとにずるりずるりと足が滑って埋まり、歩きにくいことこの上なし。ひーひー言いながら帰宅。
 すぐにパソコンを開いて、昨夜あきらめたデータをダウンロード。1GBほどだが5分かからずに完了。データをチェックして、印刷所へアップロード。こちらも5分かからず。
 シャワーを浴びる。ピーさんと遊んでいるうちに睡くなったので昼寝。

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 帰りは家人にクルマで送ってもらう。住宅街にある小路の道路は、雪がぐずぐずに解けてひどい状態。非力なクルマは埋まってしまうほど。
 17時の血糖値114。
 17時半、血圧測定133/72。
 17時49分、夕食配膳。インスリン(ヒューマログ)10単位注射。

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◆ごはん195g(半分残す)、南蛮漬け(白身魚)、野菜サラダ。生野菜を追加。

 献立表には「とんかつ」という文字が輝いていたのだが、やっぱり俺の目の前に饗されることはなかった。わかっていたよ。でも、南蛮漬けも好き。

 そろそろ退院も近づいてきた。この入院中におこなった治療のメインは、食生活の改善と言って良いだろう。初日の昼食から今日の夕食まで68回の病院食(カロリー・塩分・脂質の制限食)を食べて、もろもろの数値も改善傾向にある。
 健康な食生活を送るためには、お金と時間がかかる。それは高級というわけではなくて、丁寧さと上質さを求める必要があるからだ。この理想的な食生活を、これから死ぬまでどれくらい忠実に守っていけるのだろうか。年齢を重ねて、あまり働けなくなり収入も減っていく現実に直面したとき、高品質の食を求める財力と気力があるのだろうか。いまのこのカラダの状況では長生きは望めないが、ごく短いだろうけども、たどり着くかもしれない老後を心配したり。貧困に陥れば治療費も捻出できないから、早く死んじゃうかもしれいないしね。
 いまの日本はすごい勢いで弱者に厳しい世の中になってきているので、心暗い結末が当然のように見えてくる。正直、ここ数年で日本社会の質は加速度的に劣化して、日本という国自体に誇るべき部分を見つけるのが難しくなっている。地域の一員である自覚はあるが、日本国民という意識は薄れているというか拒否したいのが正直な心情だ。

 21時の血糖値114。おお、これで今日の4回の計測はすべて正常値の範囲内だったな。食事量は自分計算で1240kcalだから、退院後に維持するのは難しい数字ではあるが、ともあれ血糖値を低くコントロールできたのは良いことだろう。
 インスリン注射(トレシーバ)20単位を注射。看護師がじっと見つめる中で注射するのは、しなくていい緊張を強いられるものだ。しかも、ことさらスムーズに手順を進めようと背伸びして、すこし汗なんか垂らしたりして。
 消灯。
 6時半起床。
 体重測定101.0kg(前日比+0.1kg)。便秘続く。
 7時の血糖値98。おお、いいね。寝ぼけていたのか、測定の手順を一部誤る。慣れたかな、と思う頃合いが一番ミスを犯しやすいものだ。

 7時50分、朝食配膳。インスリン(ヒューマログ)10単位注射。

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◆ごはん195g(量に疑問)、味噌汁、茹でアスパラ、ボイルウィンナー、切り干し大根煮、ふりかけ。生野菜を追加。

 いつも半分残しているので、ごはんの量が減ったのかと思った。見た目(体積)としては明らかにいつもより小さい。看護師さんにごはんの量を確認したが、いつもと同じ量のはずとのこと。食べる量が減ったというクレームだと思われたらイヤだな。どうせ半分残すわけだが、その半分の目安にバラツキがあるのが許せなくて。
 実際に食べた感じはすこし水分量が多いかな、という炊き加減。120gくらいのような気がする。逆に盛りが多いときもある。そういう時は指摘しないのだから勝手なものだ。

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 9時半、血圧測定148/80。血圧の薬が減って、じわじわと数値が悪化してしまている。これはおそらく来週の退院時には薬は元に戻りそうだ。
 10時前、デザイナーから奥尻島の観光パンフの表紙案が届く。すぐさま役場と観光協会へ転送。

 10時半、主治医回診。インスリンは確実に効いてきたので、「(個人的に記録している血糖値と食事内容の一覧表を見て)その糖尿病へのこだわりを退院後も続けられれば、インスリン注射の量も減っていくはずですよ」。まったくその通りでございます。

 12時の血糖値118。
 12時31分、昼食配膳。インスリン(ヒューマログ)10単位注射。

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◆ごはん195g(半分残す)、白身魚の野菜あんかけ(四割残す)、肉じゃが、牛乳(在庫へ)。

 あまり美味しくない。近年では珍しいことだ。

 13時、外出。病院正面から出待ちしている緑色のタクシーに乗車。車内はイカの燻製の香りが漂っていた。すこし雑な感じの運転。信号待ちではハンドルを指でとんとんと弾いている。ここのタクシー会社は運転手の名前を客席から見える場所に掲示していない。そう言えば、運転席と客席を仕切る防犯用の透明ボードもない。いろんなものへの投資をやめているのかもしれない。この病院の出入り業者だと思うが。いつもは運転手との会話を楽しむのだが、今日は終始無言で。
 自宅のちょっと手前で降車。870円。千円札を出して領収書だけもらう。

 帰宅してすぐに仕事部屋へ向かって作業開始。奥尻で撮りためた写真から、パンフレットに掲載するカットを選ぶ。
 取材で撮影した写真は、膨大な量を外付けハードディスクに保存してあり、さらにそれを別の外付けハードディスクにバックアップしてある。でも、機械なので壊れることがあるわけで、デジタルデータが物理的な場所を取らないが、物理的破損に弱すぎる。津波などの震災で汚れてしまったプリント写真をクリーニングするボランティアがあるが、デジタルデータは諦めるしかないだろう。取材では古写真の存在に助けられて、歴史的な事実や類推に辿り着いたりするのだが、デジタル時代以後の将来はどのように「掘り起こし」がおこなわれるのだろう。
 紙と墨の文書は千年たっても読むことができる。千年後はデジタル時代の記憶はすっかり消え去って、謎の時代になってしまうかもしれない。

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ピーさんと遊ぶ。うごうごしてた。

 15時、予定にはなかったが「冬至だから」という家人のすすめで入浴。柚子の香り。ああ、もう今年も終わるなぁ。
 16時5分、家を出発。12分ころバス停到着。さすがに16時2分のバスは行ってしまっただろうし、次のバスは16時20分だったので、ひとつ先のバス停まで歩くことにする。はい、予想通り。次のバス停までの中間まできたあたりで、当初乗ろうとしていた16時2分のバスに追い越される。遅れすぎだぜ。
 次のバス停に着いて、ほどなくして来たバスに乗車。五稜郭(第一生命前)で降車。第一生命には俺が幼稚園児のころまで母が勤めていたので、その中の託児所的なところに何度か預けられた記憶がある。
 病院内のローソンで生野菜を購入して病室に戻る。
 奥尻町役場からメールが届いて、パンフレットの改訂版が校了(一部責了)する。印刷データの作成に進む。

 17時の血糖値81。低い。低血糖症状が出そうな数値。空腹は感じているが、その他の症状はなし。昼食を少なめにしてしまったので、その影響だろう。夕食が待ち遠しい。
 17時50分、夕食配膳。インスリン(ヒューマログ)10単位注射。

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◆ごはん195g(四割残す)、鶏の照り焼き、かのこ煮、海藻サラダ。生野菜を追加。牛乳を在庫から追加。

 本日は冬至ということでカボチャが出た。かのこ(鹿の子)とは、こしあんに小豆の粒が入った料理らしい。和菓子で鹿の子餅とか耳にする。
 これで、ゆず湯に入ってカボチャも食べたので、健康な1年を暮らせるはずだ(こういう迷信は嫌いじゃない)。

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おしい。文字も手書きにすべき。かわいい。

 21時の血糖値134。インスリン(トレシーバ)20単位注射。どうやら手順書を見なくてもスムーズに注射できるようになった。

 消灯後、デザイナーから印刷データ完成のメール。さっそくダウンロードをこころみるも、用意している回線では1日かかりそうだし、それを印刷所にアップロードするのは2日かかりそうなので、30分ほどで見切りを付けて中断。明日も一時帰宅して作業をすることにした。入院中に感じたほぼ唯一の不便だ。毎日不便(便秘)ではあるけれども。
 6時15分起床。
 体重測定100.9kg(前日比+0.1kg)
 7時、血圧測定136/81。自分で血糖値測定111。まずまず。

 7時56分、朝食配膳。自分でインスリン(ヒューマログ)10単位を注射。

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◆ごはん195g(半分残す)、五目卵焼き、ひき肉豆腐の炒め煮、いんげんおひたし、味噌汁、牛乳、ふりかけ。生野菜をすこし追加。

 9時の血圧129/82。

 病棟に10歳くらいの入院患者がいる。洗面台も背伸びして使うような小さい女の子。朝から晩まで大声でおしゃべりしている爺さんとデイルームでお話をしていた。「1年くらい入院するの。でも早いと3カ月だって!」「頑張らなくちゃいけないよ」。いつもは爺さんの声がうるさく感じるのだが、今日は穏やかに聴けた。

 11時45分、自分で血糖値測定166。上昇の傾向と要因が全然わからないが、それがまた興味深くもある。
 12時33分、昼食配膳。自分でインスリン(ヒューマログ)10単位を注射。

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◆きつねうどん、大学いも、もやしナムル。

 入院初日の初回の食事(昼食)が鶏うどんだったので、3週間で一周した感じか。病院の給食にはどれくらいのバリエーションがあるのだろうか。

 13時、外出。風が吹いて寒く感じるが、昨日より気温は暖かいはずだ。行啓通から中央警察の交差点から東山墓園線へ。相変わらず警察署の周りの歩道は最悪のコンディション。さぞ、お忙しいのだろう。
 帰宅前に3週間放置しているクルマの状況を確認するために駐車場へ。案の定、雪に埋もれて赤いクルマが白いクルマになっていた。すこし掘り出そうと試みたが、降って積もって解けて凍ってまた降ってを繰り返した雪は固くて、どうにもこうにも掘り出すことはできず。春の雪解けを待つのだろうか。予定ではあと1週間、退院するころには雪の重みでペシャンコになっているかもしれない。

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隣のクルマはなぜこんなに近接しているんだろう。

 帰宅してすぐに入浴。効き湯。温かさがじわじわと染みていく感覚。風呂からがるとピーさんがカゴの入口付近で激しく横揺れしている。家人が言うように、残像が見えるようだ。そのうち、ピーさんが数羽に増えて、前から後ろから攻撃してくるかもしれない(バトル漫画の定番)。放鳥すると元気よく飛び出して、お気に入りの鏡の前でおしゃべり。それを聴きながら1時間ほど昼寝。

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 せっかく購入したMacBookProは箱に入ったまま。セットアップを始めると半日はかかるだろうから仕方がない。だいたい周辺機器はそろって、更新するソフトウェアも手配済み。なんだかんだで40万円近い出費になった。仕事のためとは言え金がかかることだ。組織に所属している人たちは、仕事で使う基本的な道具を自分で用意することはないだろうから、その点はうらやましく感じる。

 16時、家を出る。五稜郭タワーから五稜郭に続く歩道が、今日はどうなっているかを確認するために、五稜郭の濠に沿って歩く。
 現場を確認すると、「僅か30m」なのにと伝えた未除雪の歩道から、きれいさっぱり雪がなくなっていた。昨日までは右手奥にある電柱の向こう側までしか除雪されていなかったのだが。

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 たいへん歩きやすい。国指定特別史跡「五稜郭」を訪れる世界各国からの観光客も感謝しているはずだ。昨日までの五稜郭タワーの姿勢には大いに疑問と不満を抱いていたが、それらはすっきり解消した。
 観光で稼ぐ(収益を上げる)とは、こういうことなんだと思う。気持ちよく出迎えてもらえれば、気持ちよく金を使うというものだ。とにかく観光業に携わる人は、まずは自分の身になって考えないと、「大切」なことを忘れてしまうようである。上質なサービスには、それに見合った対価をいただける。手を抜いたサービスでは、財布の口は開かない。旅行ではある程度お金を使いたいもので、そんな気分をわざわざ削ぐようなことは避けるべきなのである。

 16時40分ころ病院に戻る。
 17時、自分で血糖値測定101。いいね。
 17時56分、夕食配膳。自分でインスリン(ヒューマログ)10単位を注射。まだ手順書を確認しながらだが、だいぶスムーズになってきた。

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◆ごはん195g(半分残す)、蒸し鶏薬味醤油、パスタのマヨネーズ和え、煮豆(甘い)。生野菜を追加。

 また豆が出た。嫌いじゃないけど、甘いのは積極的に食べたい気はしない。小さくひと口だけ囓って、あとは残した。
 食後、猛烈な眠気。

 21時、自分で血糖値測定98。ここに来て入院後の最低値。不思議だ。
 自分でインスリン(トレシーバ)20単位を注射。
 消灯。22時ころまで日誌を書いてからベッドに入る。

 1時ころ起き出して、奥尻町役場からのメールを確認。観光パンフの校正戻しが来ていたので、さっそく整理をしてデザイナーに修正の手配。2時半ころ仕事を終えて就寝。

プロフィール

高山潤
函館市および道南圏(渡島・檜山)を拠点に活動するフリーランスのライター、編集者、版元、TVディレクター、奥尻島旅人。元C型肝炎患者(抗ウィルス治療でウィルス再燃、インターフェロン・リバビリン併用療法でウィルス消滅で寛解)、2型糖尿病患者(慢性高血糖症・DM・2009年6月より療養中)。酒豪。函館市(亀田地区)出身、第一次オイルショックの年に生まれる。父母はいわゆる団塊世代。取材活動のテーマは、民衆史(色川史学)を軸にした人・街・暮らしのルポルタージュ、地域の文化や歴史の再発見、身近な話題や出来事への驚きと感動。詳しくはWEBサイト「ものかき工房」にて。NCV「函館酒場寄港」案内人、NCV「函館図鑑」調査員(企画・構成・取材・出演・ナレーション)。


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