追悼 函館大妻高等学校 外山茂樹校長先生(7月27日撮影)
ずいぶんと涙を流してしまった。
人前でだらしなく泣いて、でも止めようがなくて、ようやく三日たった。
僕はわずか8年半という短いお付き合いだったが、
正直、ずいぶんと大きな存在を失ったという思いを強くしている。
それは、ご家族、ご親族、学校関係者、
そして、校長先生を知る多くの人たちも、同じ思いを抱いていることだろう。
しかし、それよりもなによりも、僕は悲しくて切なくて寂しくて仕方ない。
胸に穴があいた。確実に。いまは、それをふさぐすべがわからない。
8月24日、信じられないことだが、
函館大妻高等学校の外山茂樹校長先生が急死された。
6月に還暦を迎えたばかり。
突然の入院から1週間。あまりに駆け足すぎだ。
その日、15時半ころ、僕は第一報にふれた。
「高山くん聞いているか? 外山さんが亡くなられたらしいぞ。」
何を言っているのかわからなかった。すぐに聞き返す。
「なに、どういうこと? 前の理事長先生のことですか?」
「違う違う。しげき、茂樹、校長先生だよ。まだ、詳しいことはわからないんだが。」
なんだそれ。そんなわけないだろ。
どういうことなんだ。ぐるぐるといろんなことが頭をめぐる。
「とにかく、僕は学校に電話をしてみますので。」
激しく咳き込んで18日に入院。学校でも限られた人しかお見舞いができていない。
電話の向こうで事務長先生が説明してくれる。
「あの、情報が錯綜していまして。では、今も入院加療中ということですね?」
そうです。大丈夫です。その言葉を聞いて電話を切る。
しかし、確かなルートから、校長先生の急死を裏付ける続報が届く。
嘘だろう。なぜ。そんな理不尽ってあるだろうか。信じられない。
ご家族だけの葬儀。公表はそれを終えてからということに。
非公式に伝え聞いていたが、やはり、どうしても我慢できなくなって、
翌日の昼過ぎに学校を訪れてしまった。
「ごめんなさいね。昨日、あの時点では何も言えなくて。」
事務長先生と短い言葉を交わすうちに、
なにかがこみあげてきて、そして涙になってこぼれた。こらえきれなかった。
卒業生の皆さんと、生徒が作った弁当を食べる。(5月30日撮影)
背伸びをして「ものかき」と名乗ってはいるが、つまりは一介の売文の徒であり、
社会一般で見るところでは、単なる出入りの業者でしかないような僕に、
しかも親子ほどの年齢差(実際に校長先生と僕の母親は同い年)がありながら、
校長先生はいつでも気さくに話をしてくれた。僕の話にも耳を傾けてくれた。
「どーだ、どーなった。」「いやぁ、忙しい忙しい。」「悪い悪い、待たせたね。」
いつも、このいずれかを口にしながら、校長先生はせかせかと応接室に入ってくる。
仕事の打ち合わせでは、提案やアドバイスを歓迎する一方で、
「な、やっぱり、これが良いな。な。」と、ご自身の考えをしっかりと持っている人だった。
学校運営はもちろんのこと、多くの公職・要職に就かれていたが、
「(伝統を)守ること」と「(伝統を)つくること」を同時にまっとうできる希有な人材であったと思う。
過去を尋ね知って、いまを多角的に分析し、そして将来の中長期的な見通しをたてる。
校長先生はもともと経済を学んだ研究者であり、
外山家の三代目として函館大妻高校に入る以前は、大学で経済学を教えていた。
教育者としての使命と重責を果たしながら、
経営者もしくは経済学者としての強い自負を持っていたのではないだろうか。
庭園での観桜会。植樹を手伝う校長先生。(5月17日撮影)
僕は校長先生との長話が大好きだった。いつも、お菓子を食べながら。
音楽、とくにJazzを愛していた。名盤や必聴盤を教えてもらった。
教育や福祉における切実な問題をいくつも聞かせてくれた。
政治、国政から市政まで、縦横に意見を持っていた。
もっとも、立場上それを公にすることはなかったと思うが。
読者家でもあった。僕が読んだ本は、ほとんど先に読み終えていた。
経済学の話は、ずいぶんわかりやすくておもしろかった。
市民向けに入門的な経済学の講座を開いたらどうかと何度かすすめると、
いまはまだ忙しいから、と満更でもなさそうだった。
学校の将来のこと。
そして、ふたりの息子さんのこと。
僕は失ってしまった。
怠惰な僕の精神を刺激してくれる大切な人のひとりを。
僕の仕事を認めて、評価して、励ましてくれる大切な人のひとりを。
寂しくて悲しくて悔しくて切なくて辛い。
体験入学の中学生に笑顔で声をかける校長先生。(昨年10月13日撮影)
校長先生が成し遂げてきた数多くの事績、
この街に残した大きな成果の数々は、
きっとそれぞれの関係者が語ってくれることになるだろう。
校長先生との個人的な思い出をひとつひとつ書き始めたらきりがない。
それに、校長先生と関わった人たちは、
誰もがそれぞれに大切な記憶をお持ちのことと思う。
いつか、そんな皆さんのお話を聞かせてもらいたい。
ひとつだけ。
先ごろ僕が呑気に入院したとき、わざわざ病室までお見舞いに来ていただいた。
そして、校長先生は、こう言って励ましてくれた。
「まだまだ、がんばってもらわないといけないから。しっかり治すように。」
そうですね。あと10年ちょっと。百周年まではがんばります。
そう言って笑いあったのは、ついこの間のことだと言うのに。
全校生徒・教職員が整列する中を、
校長先生の棺を乗せた霊柩車が校庭を一周した。(8月26日8時40分撮影)
校長先生の棺を乗せた霊柩車が校庭を一周した。(8月26日8時40分撮影)
校長先生、ずいぶんといろんなものを残していかれましたね。
たくさんの種をまき、いくつもの苗が芽吹き、これから次々と実がなるというのに。
でも、いちばん大切にされていた学校は、
これからもたくさんの新しい息吹を生んでいくに違いありません。
校長先生の思いは、ずっとずっと消えることはないと、僕は思い信じています。
たぶん、そちらでも、これまでと同じようにいろいろと頼まれて、
断り切れずに忙しくされているのかも知れません。きっと、そうでしょう。校長先生らしいもの。
そうだ。それから、ピアノの練習を忘れないように。
戦前から学校で大切にされてきたピアノの修理が終わったら、
校長先生みずから校歌の伴奏を披露すると言っていたじゃないですか。
「しばらく弾いていないけど、私の腕前はけっこうなものなんだよ。」
校長先生。
本当に、本当に、早すぎますよ。
2009年8月27日 ものかき工房 高山潤
食物健康科1年生の戴帽式を見守る校長先生。(6月2日撮影)
【追記】
※9月18日(金)13時から、函館大妻高校にて学園葬がおこなわれます。お問い合わせは学校まで。
※葬儀について。「学校の授業や行事に迷惑をかけることがあってはならない」という校長先生のお考え(ご遺言)を尊重し、ご家族のみで葬儀をとりおこなったということです。
【追記】
※9月18日(金)13時から、函館大妻高校にて学園葬がおこなわれます。お問い合わせは学校まで。
※葬儀について。「学校の授業や行事に迷惑をかけることがあってはならない」という校長先生のお考え(ご遺言)を尊重し、ご家族のみで葬儀をとりおこなったということです。
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