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かみさんは中学生のときに、書店で鴻上さんの戯曲を手にして以来の熱心なファン。数年前、札幌公演のおりにロビーに立っていた鴻上さんに話しかけ、ぽろぽろと涙を流していたくらいに。
さらに、鴻上さんの処女戯曲『朝日のような夕陽をつれて』(初版二刷)にサインしていただく。
さらにさらに、『孤独と不安のレッスン』と『「空気」と「世間」』にもサインをいただこうと思っていたが、自宅に忘れてくる痛恨のミス。欲ばりすぎはよくないか。
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こんなぼくでも少女のように舞い上がることはあるのだ。
函館市芸術ホールが主催する市民向け企画「ステージラボ」の演技ワークショップに、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが講師で来函すると聞きつけて、いてもたってもいられなった。
ぼくの仕事(おもにインタビュー取材)は、一方的にインタビュイーのお話を聴くだけでなく、インタビュワーであるぼくの意志を(すこし過剰気味に)伝えながら、一緒に話したい・聴きたい・書きたい「なにか」を探していくスタイル。取材現場でぼくが発する声や表情や反射(反応)は、インタビューを進めるために重要な要素だと思っている。ここに生かせるはずだ。ま、そんな言い訳を用意して、演劇人でもないのにワークショップに参加することにした。
ワークショップでは心身の緊張をやわらげることからスタートし、おもに「発声」について教えていただいた。声(音)のメカニズムを学びながら、実際に発声をして体感していく。鴻上さんの「気持ちは瞬時に変化することもあるが、身体はワンクリックでは変わらない」という言葉は、なにかを「めざす」人たちすべての励みになる言葉だと思う。
身体の重心を下げること、声のベクトルを意識すること、声の五つの要素を理解すること、など。鴻上さんの書籍で読んでいたはずだが、ご本人のレクチャーを受けることで身体になじませることができた。
緊張したとき、焦っているとき、人は首(上半身)から動き出してしまう。声もうわずっている。そのままでは、行動も表現も上滑りだ。思いも狙いも届かない。とにかく、身体の重心を下げる。声を落ち着かせる。そのことが精神にフィードバックされて落ち着きを取り戻す。これはナルホドと思った。日常にも生かせることだ。
5時間はあっという間だった。地域で活動する若い演劇人へ向けて、明快で丁寧な技術指導と深い情熱を秘めたメッセージ(けして暑苦しくない)を伝える姿に感動した。ぼく自身は本当に年甲斐もなく舞い上がってしまって、鴻上さんに16回くらい「うるさい」と言われて、そのたびに多幸感に包まれていたのが恥ずかしい。
居酒屋での打ち上げでは持ち前の厚かましさを発揮して、サインをねだる・写真を撮る・厚かましい質問はぶつけるはで大興奮。同伴したかみさんにも良い想い出をプレゼントできたと勝手に思っている。
今回の受講生はぼくを入れて23人。これはすっごくもったいないことだと思う。鴻上さんを困惑させるくらい人が集まっても良かったのに。かかわりのある演劇関係者にも声をかけたが、参加が叶わなかったことは残念なことだ。次の機会はいつになるかわからない。せめて、ぼくが聴きとめたことを、伝えられる機会があればな、と思う。下記に紹介した書籍を読んだ方がわかりやすいと思うけど。
かみさんは中学生のときに、書店で鴻上さんの戯曲を手にして以来の熱心なファン。数年前、札幌公演のおりにロビーに立っていた鴻上さんに話しかけ、ぽろぽろと涙を流していたくらいに。
かみさんが何度も何度も大切に読んできた『私家版 第三舞台』にもサインを。
さらに、鴻上さんの処女戯曲『朝日のような夕陽をつれて』(初版二刷)にサインしていただく。
さらにさらに、『孤独と不安のレッスン』と『「空気」と「世間」』にもサインをいただこうと思っていたが、自宅に忘れてくる痛恨のミス。欲ばりすぎはよくないか。
ぼくは大学生のとき、週刊誌連載のエッセイ「ドン・キホーテのピアス」で、文筆家としての鴻上さんに惚れた。
その後、かみさんと出会った影響で戯曲を読み、演劇にも興味が広がったのは幸せなこと。
※鴻上尚史さんご本人に写真掲載の許諾は受けています。酒席で。
昨夜、渡辺保史さんが急逝された。
くも膜下出血のため。47歳、あまりに早い。
くも膜下出血のため。47歳、あまりに早い。
ぼくが函館でのフリーランスのライター仕事を本格化させたころ、渡辺さんからメールが届いた。桔梗町のモスバーガーで待ち合わせして3時間ほどお話をした。ぼくは興奮していた。インタビューされる側が、インタビューされちゃったよ。そう笑っていた。
当時、渡辺さんは仕事の拠点を函館に移して、精力的に「仲間」を探していたようだ。
渡辺さんが主宰した市民グループ「ノード・ハコダテ」のトークライブにて(2001年1月)
渡辺さんが語ってくれること・教えてくれることは、ぼくにとってどれもが新鮮かつ刺激に満ちていて、ひとつひとつに蒙が啓かれる感じだった。
そして、中央から遠く離れた地・函館で暮らしながらでも、やれることがるんだ、と覚悟を決めさせてくれるヒントをたくさん与えてもらった。いまもぼくの仕事の中に、その影響を見つけることができる。
西村佳哲さんを函館に迎えて。「サウンドバム」をテーマにしたトークライブ(2001年7月)
地域での実践。街の音を探す「サウンドバム@ハコダテ」での1コマ。(2001年7月)
函館で開催した「hakodadigital×shrinking cities----縮小する都市の過去・現在そして未来」展にて(2007年11月)
当時、渡辺さんは仕事の拠点を函館に移して、精力的に「仲間」を探していたようだ。
渡辺さんが主宰した市民グループ「ノード・ハコダテ」のトークライブにて(2001年1月)
渡辺さんが語ってくれること・教えてくれることは、ぼくにとってどれもが新鮮かつ刺激に満ちていて、ひとつひとつに蒙が啓かれる感じだった。
そして、中央から遠く離れた地・函館で暮らしながらでも、やれることがるんだ、と覚悟を決めさせてくれるヒントをたくさん与えてもらった。いまもぼくの仕事の中に、その影響を見つけることができる。
西村佳哲さんを函館に迎えて。「サウンドバム」をテーマにしたトークライブ(2001年7月)
地域での実践。街の音を探す「サウンドバム@ハコダテ」での1コマ。(2001年7月)
函館で開催した「hakodadigital×shrinking cities----縮小する都市の過去・現在そして未来」展にて(2007年11月)
いつも忙しそうに飛びまわる。それが渡辺さんの仕事のスタイルだったのだろう。
人に会うこと、現場に立つこと、実践すること。それらに時間と体力を惜しむことがなかった。全国あちこちに、渡辺さんに会って・感じて・行動した人が多くいるはずだ。そして、これからも渡辺さんが「考えていたこと」は、さまざまなところで萌芽していくに違いない。
たぶん、唯一めんどうだったのは、原稿を書くことじゃなかっただろうか。
ライター同士の立場で話をするときは、いつも「書かなくてもいいなら良い仕事だよね」と笑いあっていた。
渡辺さんが函館を離れてからは、1〜2度ほどしか顔を合わせる機会がなかった。
最後にお会いしたのは北大の研究室。2時間ほどのインタビューをさせてもらった。家族のことを話す渡辺さんのはにかんだ顔を思い出す。
北海道大学にて。(2008年10月16日)
渡辺保史さん
http://www.facebook.com/yaswtnb
人に会うこと、現場に立つこと、実践すること。それらに時間と体力を惜しむことがなかった。全国あちこちに、渡辺さんに会って・感じて・行動した人が多くいるはずだ。そして、これからも渡辺さんが「考えていたこと」は、さまざまなところで萌芽していくに違いない。
たぶん、唯一めんどうだったのは、原稿を書くことじゃなかっただろうか。
ライター同士の立場で話をするときは、いつも「書かなくてもいいなら良い仕事だよね」と笑いあっていた。
渡辺さんが函館を離れてからは、1〜2度ほどしか顔を合わせる機会がなかった。
最後にお会いしたのは北大の研究室。2時間ほどのインタビューをさせてもらった。家族のことを話す渡辺さんのはにかんだ顔を思い出す。
北海道大学にて。(2008年10月16日)
渡辺保史さん
http://www.facebook.com/yaswtnb
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