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3月20日(火)

四日目。函館中央病院。
1kg痩せた。便秘が解消されたので、その分とも言える。

 「もう、死んじまいたいの」
 「まー、そんなこと言ってぇー、かんたんに死ねないんだよ」

そんな会話が廊下の向こうから聞こえてくる春分の日。
極楽浄土は彼岸の彼方か。

祝日で検査などもなく、病棟はゆったりしている。

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朝食/ごはん(195g)、味噌汁(大根葉)、温泉たまご、大根とにんじんの煮物、牛乳、減塩しょうゆ。

血圧136/72 体温 35.7度
家にいるときと同じ。

朝からでかい声で電話をしているオッサンがいる。
病棟マナーを逸脱しちゃうのは、男性のほうが多いような気がする。
そして、病状の進行に(精神的に)弱いのも男性だ。

11時過ぎに妻が来院。
4回入院して、妻のお見舞いがあるのは初めてだ。
1階のドトールで、ミラノサンドCをがつがつ食べていた。
こちらは真っ黒のコーヒー。

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昼食/豆ごはん、焼き魚、大根おろし、きゅうり酢の物、三つ葉のおひたし、しょうゆ。

なぜか、ぼくの昼食が手配されていなかったようで、
10分ほど遅れて運ばれてくる。
あわてたのか、減塩しょうゆではなかった。

14時過ぎ、NCVのディレクターが来院。
4月以降の番組企画などを打ち合わせ。
農業体験もののコーナーを立ち上げられるかも知れない。
楽しくなってきた。

昨年の2月から休止している「函館酒場寄港」の話題も。
視聴者アンケートでは、再会のお願いがいまだに寄せられるそうで。
ありがたいことである。ふだん求められることが少ないので嬉しい。
なんだかんだとしゃべりすぎて疲れる。

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晩飯/ごはん(180g)、味噌汁(ふ)、スパゲティー、鶏肉。

今日はコーヒーを飲み過ぎて胃もたれ。
食欲がないが、明日は検査のために午前中は絶食なので、そろそろと箸を付ける。
なんだかんだ言って、きっちり食べた。






入院記録のついでに、むかし話を綴っていますが、
これは僕自身のリハビリとして書いているだけなので、
読んでも役に立たないし、おもしろくもないです。

【自分史草稿(四)】-----------

しばらく、おしゃぶりを咥えていたそうだ。
いまでも、おしゃぶりはゴム色をしているんだろうか。
おしゃぶりを捨ててきなさい、と何度も言われた。
当時はトイレットではなく、ぼっとん便所である。
私は便槽に落ちたおしゃぶりをじっと見つめていたという。

引き戸の玄関を入ると、広めの靴脱ぎスペースがあった。
左手が茶の間へのとびら、右に振り返ると便所のとびら。
正面右手に階段があり、その下に収納スペースがあった。

ここになぜかパチンコ台が置いてあった。
銀色の取っ手を指ではじくタイプのものだ。どこかで拾ってきたんだろう。
チューリップに銀玉が入ると、ちゃんと玉が出て電飾も光った。
私の玩具だったのか、父の玩具だったのか、よくわからない。
おかげさまで、それ以来、私はいままでパチンコをしたことがない。

茶の間は板張りの壁で、床はぎしぎしと音を立てていた。
建て売りの安普請だったのか。
後年(と言っても、この赤川の家には4年ほどしか住んでいない)、
業者が来て床下を点検していたのを覚えている。ひどい状態だったという。
庭に面した大きな窓があり、ガラスにはひび割れがあった。
私が激突したあとだ。

壁には躍動する馬が描かれたカーペットが掲げてあった。
イスタンブールででも買ってきたんだろうか。
このカーペットは、いまも引っ越した先の実家の壁にある。
三畳くらいの大きさなのだが、
実はよくみると一畳分くらいカットされて、つなげてあるのがわかる。
ひまで仕方なかった子どものころ、この絵を何時間も見つめていたっけ。

向かいの姉妹とおままごとをするか、
近所の女の子の家に遊びにいく以外は、
家でトミカを走らせたり、赤い車の絵ばかり描いている子どもだった。
ひとりで、ぶつぶつ、つぶやきながら。
ちなみに、幼稚園までは、すらりと痩せていた。
いかにも、もやしな感じ。
チラシの裏や画用紙に、くねくねと線を引いて、
それに合わせて何台もの車の絵を描いていく。
母はうまいうまいと言って、それを何枚も壁に貼ってくれた。

ガラス張りのサイドボードがあって、
そこには洋酒のミニチュアボトルが並んでいた。
大きなワニの剥製もあった。
父が中南米で漁をしていたとき、お土産で買ってきたもののはずだ。
目玉がビー玉だった。
15センチほどのタツノオトシゴの剥製もあった。
大沼公園で拾ってきたドングリを引き出しにしまっておいたら、
虫がわいてひどいことになっていたのも覚えている。

幼稚園に入る前だと思う。家に刑事が来たことがあった。
車内から財布を盗まれたのだ。
 あとで、近くの中学生の犯行だとわかった。
警察の人が来るよ、と聞いて、窓ガラス越しに来訪を待っていたら、
私服の大人が普通の車でやって来た。
私は残念そうな顔をしていたのだろうか。
その刑事が「パトカーじゃなくてゴメンな」と声をかけてきた。
ここでパトカーを間近で見ていたら、警察官になっていたかも知れない。
2012年3月19日(月)

函館中央病院にて。
糖尿病治療のための食事療法3日目。

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◆朝食/ごはん、冷や奴、味噌汁(わかめ)、つみれとささぎの煮物、牛乳(180ml/120kcal)、減塩しょうゆ。

病院食にはかならず「ささぎ」が入っているな。
保存しやすい食材なのかな。
どうやら、フルーツは出なくなったようだ。

朝9時、秋保先生がわざわざお見舞いにいらっしゃる。
「洞爺丸」本の原稿も大幅に遅れているし申し訳なし。

眼科の検査。
糖尿病による網膜症(単純網膜症)の症状が見つかった。
前回(2年前)の診察ではどうだったかな。
このブログの記事をさかのぼって確認すると、「合併症はナシ」との診断だった。
この半年以外は、きちんと血糖コントロールしていたのだが、
それでも症状はあらわれるようだ。
とは言え、ほとんど気にならない程度だという。いまのところ。
二か月後の診察予約をする。
まるで関係ないが、担当医は好みのタイプだった。

眼科の向かいが泌尿器科なんだが、
そこの外来看護師さんが、たいへん素晴らしい対応をしている。
「足もと悪いところ、ありがとうございます」などと患者に声をかける。
それでも、べったり馴れ合いという感じではない。
患者も「よっ」とか挨拶を交わしている。
きちんと通って、病気を治したい、という気持ちにさせてくれる。

この人に店の接客を任せておけば、ぜったい成功するだろうな。

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◆昼飯:ごはん(195g)、鶏の照り焼き、マカロニとチーズのサラダ、キノコと野菜のホイル焼き、減塩しょうゆ。熱々のホイル焼きに感動。照り焼きもうまし。マカロニは「サラダ」を名乗るくせに炭水化物なんで、食べると損した気分になるんだよな。

隣の爺さんのところに担当医師が回診。
カーテン越しに会話が聞こえてくる。どうやら、ちょいと面倒な病態らしい。
医師が専門用語ばんばんで質問(問診)して、
爺さんは、よくわからないながらも、質問へたどたどしく答える。
しかし、かみ合わない回答に対して、
「それはわかっていますから。そうではなくて・・・」と返す医師。

技術が優秀でもなー。
臨床じゃなくて、研究職にでも行けばよいのに。

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今日は朝から吹雪。

主治医の回診。40秒。
「ヘモグロビンA1cは6.0%でしたよ」と、入院時の血液検査の結果を口頭にて。
他の数値も確認したいから、できれば外来診察のときと同じように、
検査結果を出力印字した用紙をご提供いただきたいところだが。

理学療法士(だったかな)から、リハビリ室で運動療法の説明。
いろいろ質問をしてみる。あんまり質問され慣れていないのか、
さらに後の時間が詰まっているらしく、あちらの口調にだんだんとイラが入ってくる。
聞くとか、見るという行為には、どうしても仕事柄が入ってしまう。
しつこすぎたか、と反省。でも、聞いておきたいことがたくさんあったもんで。
運動の「理論」をいくつか知れて、役立つ時間ではあった。

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◆晩ご飯/ごはん(195g)、味噌汁(キャベツ)、魚の磯焼き(タラかな)、すき焼き風の煮物、減塩しょうゆ。

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フルーツが止まったので、ごはんが増えたようだ。
おかずの分量はどうなんだろうね。

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497g(ごはんと茶碗の重さ) - 319g(茶碗の重さ) = 178g
あんまりきっちり計ってないんだな。ま、誤差の範囲か。

短い原稿を一本、企画書を1本書いて就寝。





【自分史草稿(三)】-----------

隣の家は私塾を開いていた。
脚が悪いおじさんがいて、家の二階で授業をしていた。
机の上にはすごく小さなテレビがあったのを覚えている。
高校生の娘さんがいて、よく遊びに行った。
白いギターを弾いてくれた。いや、白くなかったかも知れない。
ある雨の日、娘さんを学校まで送る車に同乗した。
たくさんのお兄さんお姉さんが、どんどん建物に入っていく。
その人数にすこし怖くなって、出していた顔を引っ込めた記憶がある。
たぶん、あれは東高校だったと思う。

言葉の覚えは、早かったのか遅かったのか。
長男(5歳まで実質的なひとりっ子)だし、たぶん遅かったんじゃないだろうか。
喃語(なんご)を自慢げに話していたらしい。
「ぐちゅぐにゅ、みゅちゅちゃしゅ、にゃにゅぎじびゃー」
「お、潤がまた英語を話しているぞ」
そんな会話を覚えている。
覚えているが、そんなはずはないので、きっとこれは後からつくられた記憶だろう。

私が最初につぶやいた言葉は「赤ブブ」だったそうだ。
赤い車、という意味である。
三つ子(の前だと思うけど)のたましい百まで、ってやつで、
いま乗っている車は真っ赤である。

免許を取った父は車を購入した。
マツダ(東洋工業)のグランドファミリアだったと思う。焦げ茶色だ。
記憶ではヘッドライトは角形だったから、
丸型にモデルチェンジされた昭和50(1975)年以前の前期型だったはずだ。
中古車を買ったのだろう。
車は大好きだったが、
タバコと芳香剤の混じった香りは苦手で、いつも車酔いしていた。

ご近所の車で覚えているのは、ホンダZとホンダシビックだ。
ホンダZには、すごく太った夫婦が、ぎゅうぎゅうになって乗っていた。
シビック(丸型ヘッドライト初代)は隣の家のもの。
なぜか、私はこの車を「敵視」しており、
いつもこっそりフロントバンパーに立ち小便攻撃を加えていた。
あるとき、「けっこう錆びるのが早いもんだ」という会話を聞いて、
目標の達成と、露見を恐れて、攻撃を止めにした。

玩具の多くは、車をモチーフにしたものだった。
またがって乗り回すもの。
  座席部分が上にパカリと開いて、収納スペースがあるやつだ。
ミニカー。いくつかのメーカーがあったが、やはりトミカがお気に入りだった。
あれはドアが開くし、車内も再現されていたからね。
大好きだったのはフェアレディーZである。
通常タイプとパトロールカータイプを、何台も所有していた。
ロングノーズが格好良かった。
フロントライト部分に、カバーがあるものと無いものがあって、
カバー付きの方がお好みだった。いまはカバー無しの初期型の方が好みである。
このカバー部分に、ちょくちょく髪の毛が挟まるんだよな。
お年玉で、少し大きめの完成模型(ラリー仕様)を購入したのを覚えている。
「また、その車なの?」と母に言われた。
2012年3月18(日)

入院2日目。函館中央病院にて。

本日はターゲス(1日に7回採血して、血糖値の動きを見る検査)。
朝から採決失敗で、手の甲に二度の針刺し。痛い。
痩せると血管が見えてくるのだが、体重が増加した状態だと
血管が見えないし、どうやら「逃げる」らしい。

で、結局のところ7回の採血のために、注射針を計10回刺した。
痛い目に遭うと、やっぱり体重は落とした方が良いな、と痛感する。

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◆朝食/ごはん(180g)、味噌汁(大根)、白菜おかか和え、竹輪と高野豆腐の煮物、味のり。480kcalくらいかな。

病棟の廊下に1週間の献立表が掲示してあり、
カロリー・塩分・たんぱく質が明記されている。
これはたいへん参考にある。
しかし、治療食(糖尿病でカロリー制限とか、腎臓病でたんぱく質制限とか)の場合は、
患者によって内容が異なるので、メニュー表とすべて同じというわけではない。

最初の入院時(2009年6月)には、献立表の掲示がなかった。
翌年2月に、五稜郭病院に腎臓の検査で入院した際には、
食事トレイに内容(カロリー・塩分・たんぱく質を表記)を記載した紙が添付され、
より丁寧で使いやすかった。

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◆昼食/食パン(2枚)、たまご焼き、ソーセージ、牛乳(180ml)、サラダ、りんごジャム、減塩しょうゆ。8単位(640kcal)かな。

果物アレルギーなのでバナナは避ける。明日あたりから、果物を止めてもらえるだろうか。
ジャムもそれほど好きではないので手を付けず。
パンはふんわりで、なかなかの美味。


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◆晩飯/ごはん(180g)、味噌汁(白菜)、サバ塩焼き、ふき炒め、肉じゃが、和え物(えのき)。8単位(640kcal)くらいなもんだろう。

自宅できっちり食事制限をしていたときは、
ごはんを150g(3単位/240kcal)で計算している。
品種、精米方法、もしくは炊き方の違いだろうか。
個別表記のあった180gより多いような気がする。

  田んぼ記者らしいことを書いておくと、
  同量の「米」を炊いても、上記の理由で「ごはん」の量が変わるのは本当の話。
  精米方法を例にとると、ふつうの白米よりも、同じ品種の無洗米のほうが、
  同じ体積をはかりとったしても、米粒の数は多くなる。
  つまり、炊きあがった「ごはん」の量(体積)が、無洗米の方が増えるのだ。
  だから、お米の計量カップは、白米と無洗米で異なっているのである。

というわけで、家から持参した電子はかりでご飯の量を量ってみた。

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488g - 319g = 169g

あれ、こんなもんか。むしろ少ないという結果。
あてにならん感覚だ。だから、太ったんだろうけど。





【自分史草稿】-----------

私が生まれた1973(昭和48)年とはどんな年だったのだろう。
世相史年表などにかならず記載されるのは「第一次オイルショック」である。
トイレットペーパーを求めて殺到する人たち、ってやつだ。
当然ながら、私自身にはその当時の記憶などない。

母は札幌出身だったので、母親のいる札幌で私を出産した。
出産の知らせを聞いて、
父は札幌行きのトラックをヒッチハイクして札幌へ来たという。
 フェリーの船員なので、たぶん乗船していた運転手にお願いしたんだろう。

どれがもっとも古い記憶かはわからない。
もしかしたら、
あとで聞かされたエピソードを「記憶」と勘違いしているものもあるだろう。

赤川町(もしかしたら赤川通町だったかも知れない)に住んでいた。
一軒家だった。建て売り住宅だったそうだ。
私が2歳くらいのころ購入して転居している。
父は30歳の手前だ。生活力あるなぁ。とても真似できない。
そういう時代でもあったのだろう。
1975(昭和50)年ころの話である。


大きな地図で見る

たぶん、このあたりだ。
  ここ10年で便利になったもんだ。
  地図を参照するには、図書館でゼンリンの大きくて重たい地図をめくって、
  コピーの申請とか掲載の許諾とか、めんどうな手続きが必要だった。
  その一方で、隣に古い地図を見つけたので今昔を見くらべてみた、
  なんて体験に出会う機会が減るのは、学生にはもったいないことだろう。

いまよりは空き地は多かった気がするが、
当時すでに住宅街だったはずだ。
今は石川町へ通り抜ける道があるが、当時はたぶんどん詰まりだったので、
ほとんど車の交通もなかった。
向かいの家に、少し年下の姉妹がいて、
いつも道路にレジャーシートを敷いて、おままごとしてたそうだ。
幼いころから活発な人間ではなかったのである。
女性好きではあったようだ。
そういえば、ご近所の同年代で遊びに行く家は、
どこも女の子の家ばかりだったな。
そのうちの一人が、後年、同じ高校だったのには驚いた。
(子どもには)おもしろい響きの姓名だったので、覚えていたのだ。
学校で会ったり話したりはしなかったけれども。

自宅前から南へ少し歩くと、
立ち並ぶ住宅の合間に、大きめの空き地があった。
土管はなかったが、ドラえもんに出てくるような場所だ。
近所の子どもたちが集まっていた。年上も年下もいただろう。
みんなと一緒に遊びまわった、という記憶はあまりない。
たしか、青白のスタジャンみたいなものを着ていて、
そいつの生地が「パリパリ」と音を立てるので、
「これはパリでつくったんだ」と奇妙な自慢をしていたのを覚えている。
おそ松くんのイヤミ氏みたいな子どもだ。
そういうところは、35年くらい年齢を重ねても治っていない。
このままなんだろう、きっと。

家には庭があって、白いブランコがあった。
駐車スペースはあったが、車はなくて原チャリ(たぶんカブ)があった。
父が自動車教習所に連れて行ってくれたのを覚えている。
教習車の後部座席に座っていると、父がブレーキを踏むたびに窓に頭をぶつけていた。
教官がそのたびに笑うので、後半はわざとにぶつけていた気がする。
父が車を降りた後で、「そんなに揺れたか」と聞いてきた。
あ、その後部座席に果物が入った網かごがあったのも思い出した。
フルーツナイフも入っていて、それに触ったら痛いだろうな、と怖がっていた。
2012年3月17日(土)

10時30分、入院。
糖尿病では2回目。ここ3年で4回目になる。
いつもの函館中央病院。

食事は糖尿病の治療食。
血圧の薬も飲んでいるので減塩メニュー。23単位(1840kcal)。

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昼食。うまい。
果物アレルギーが伝わっていないのか、リンゴが付いていた。
リンゴと瓜系はいちばん症状が重い(のどが痒くなる)ので残す。

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晩飯。うまい。ビール飲めるくらい。
ただし、ご飯の炊き加減を失敗している。
浸水、水加減、蒸らし、そのいずれかが足りなかったようだ。
胃にもたれた。
また、果物が付いている。




【自分史草稿】-----------

私は1973(昭和48)年の秋に生まれた。長男である。

両親はその前年の12月、松前町館浜にある町民センターで結婚式を挙げた。
父と母の出会いは、松前町へ向かう列車の中だったと聞いている。
この国鉄松前線は、1988(昭和63)年に廃止された。

母は松前の桜を見に行くために乗車したという。
札幌からのひとり旅だった。
そんなこと聞いてみたことはないが、たぶん失恋旅行でもしていたのだろう。
当時の父は、遠洋漁業の乗組員だったはずなので、
出漁期の合間に実家のある松前に帰っていたのかも知れない。
出会いのきっかけは「ナンパ」である。
父は26歳くらい、母は23歳くらいだったはずだ。

父は松前駅で降りたら、メシでも食おうと誘ったらしい。
ちなみに、私は妻を最初のデート的なものに誘うとき、
おいしいソフトクリームを食べに行こう、と声をかけた。ま、親子なんだな。

記憶はあいまいだが、たしか函館から松前まで3時間くらいの車中だと思う。
きっと、父は必死だったと思う。このナンパを成功させるために。
若いってのは良いことだ。

父は松前駅前の寿司屋に連れて行った。
そして、「好きなものを食べてよ」と言い残し、母を店に置き去りにしたという。
戸惑いつつ、しかし、あれこれと寿司を食べるわけにも行かず。
ただただ、カウンターに座り続ける母。
そのころ、父は大急ぎで館浜の実家に向かっていたという。
寿司を食べるお金がなかったからだ。
松前駅から実家のある館浜の部落まで、おそらく10kmくらいある。
どうやって往復したんだろう。
車はないし、バスも不便だろうし、メロスばりに走ったのかも知れない。

どうにかデート資金を確保して、
寿司屋に戻ると、ひと口も食べずに座っている母がいた。
「食べれば良かったのに」と父。
いや、普通は食べないだろう。
というか、席を立って帰っちゃうよな。
そこはやはり、運命というやつなんだろう。
そういうわけで、私が生まれるきっかけとなったわけである。
ちなみに、父は熱々の鍋焼きうどんを注文したらしい。
のちに母は、寿司屋で勢いよくうどんを食べるのが、不思議で仕方なかったと述懐している。

父は結婚に際して、長く家を空けることになる外航船(外国を行き来する船)を降りて、
函館と青森を結ぶ民間フェリー会社に、機関員として就職した。
そして、ふたりは函館市に新居を借りた。
たしか、最初は大森町、続いて末広町とか言っていたはずだ。
トイレの汚いアパートだったらしい。
近所で火事があった。

日曜日(6月12日)の23時42分ころ。
顔を洗っていた妻が「火事だよー」と慌てた声を出した。
しまった、と思ってかけつけたら、妻が窓の外を指さしている。
洗面所の窓からは、JR津軽海峡線の線路を挟んで空き地を見渡せるのだが、
そこに隣接した住宅から出火したようだ。

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妻によれば、少しだけ開けていた窓の外から、
複数人の叫び声(最初はケンカかと思ったという)が聞こえた後、
市販の打ち上げ花火のような音がした。

ふと窓に目を向けると、ひとすじの煙がのぼったと同時に、
炎が立ち上がったという。

俺の部屋ではなかった。よかった。
でも、近い。夫婦ふたりで緊張する。
カメラを肩にかけて外に出た。
ご近所さんは、まだ出てきていない。
線路の向こうに見える炎が、どんどん大きくなっていく。

23時45分、119番に通報。
「昭和公園の向かい側で火事です」
すでに一報が入っていたようで、消防隊が向かっているとのこと。

消防署の電話応対は、たいへん落ち着いた声で、安心できるもんだ。


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◆23時46分、燃え上がる家。(クリックで拡大)

踏切(雨塚踏切)を渡ると、
赤々と炎を上げている住宅が見えた。

まだ、消防も警察も来ていない。
ご近所の人がわらわらと集まってくる。

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◆23時47分、パトカーが到着。(クリックで拡大)

20mほど離れた場所にいたが、全身に熱気を感じる。
ぱちぱち、ごうごう、と家が焼ける音が聞こえてくる。

近隣の住民が、隣接するアパートのドアを勢いよく叩いて、
火事を知らせていた。

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◆23時48分、消防車が到着。(クリックで拡大)

ますます火勢が強くなり、
ぼんっ、ぽんっ、と小さな破裂音(爆発音)が聞こえてくる。

周囲の人々が、これはやばい、と後ろずさりはじめた。
とりあえず妻を現場から100mほど離した。

後続の消防車とパトカー、救急車が続々と集まってくる。
放水が始まった。

撮影を写真から動画に切り替える。
5分ほどカメラを回していたが、どんどん強くなる炎を前にして
すこし足がふるえていた。
かなり熱い。
本職のカメラマンは偉いもんだと思う。
ここで一歩踏み込んで撮影するんだろうから。
ぼくは怖いので、これ以上は近づけない。


ぼくもふくめて、
次々と見物人(野次馬)が集まってくる。
自転車で来る人、わざわざ車で乗り付ける人。
非常線が張られる前は、かなり道路が混乱していた。

知り合いの記者に電話をして、
火事を知らせて、映像と画像のデータを渡す約束をする。

ストレッチャーに乗せられて、
おそらく住民のひとりが救急車に運ばれた。
5分ほどしてから、搬送されていったはずだ。


身近で起こらないと感じないものだが、
火の用心、火の用心。

まず、たこ足配線を改めようと夫婦で話しながら、
0時5分ころ部屋に戻った。

火事の炎で熱くなっていた体が、夜風にさらされて寒かった。
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プロフィール

高山潤
函館市および道南圏(渡島・檜山)を拠点に活動するフリーランスのライター、編集者、版元、TVディレクター、奥尻島旅人。元C型肝炎患者(抗ウィルス治療でウィルス再燃、インターフェロン・リバビリン併用療法でウィルス消滅で寛解)、2型糖尿病患者(慢性高血糖症・DM・2009年6月より療養中)。酒豪。函館市(亀田地区)出身、第一次オイルショックの年に生まれる。父母はいわゆる団塊世代。取材活動のテーマは、民衆史(色川史学)を軸にした人・街・暮らしのルポルタージュ、地域の文化や歴史の再発見、身近な話題や出来事への驚きと感動。詳しくはWEBサイト「ものかき工房」にて。NCV「函館酒場寄港」案内人、NCV「函館図鑑」調査員(企画・構成・取材・出演・ナレーション)。


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